W&S 100Bloger発掘プロジェクト
Skip to content

今だからこそ23 (八)四日市萬古焼      1の2


 多羅尾御用窯である庄助窯とは別に、田端教正師は唯福寺の境内に小さな工房を設けて趣味的な焼物を作っていた。海蔵庵窯と言う。(写真25・26)

教正師の子顕正は絵心があり、特に花鳥画に秀でていたが、文久二年(1862年)二十六歳で早世した。教正師の焼物作りの手助けは、防守ひさ(堅正師の妻)であった。

 殊に、教正師の晩年には、この「ひさ」が力仕事を受け持った。現在、唯福寺に遺されている石臼(挿絵3)は、「ひさ」が多度町猪飼より運ばれてきた通称「いかい」と言う硅石を突砕いたものである。「いかい」は、耐火度が高く、土の補強材である。根気のいるこの作業は大へんなものであったろうことは、石臼の底が深く掘れ、二段になっていることで想像し得る。義父に仕えて献身した若後家「ひさ」の孝心を想う時、頭が下がるのである。

 唯福寺には、この時の作品が色々と遺っている。これらには「萬古」、「萬古不易」の印の外に教正師の雅号「楽只」の印、或いは彫り銘がある。作品は低火度焼成のものが多い。(挿絵4は印譜、挿絵5は軟陶作品)

挿絵 4 海蔵庵窯「印譜」

挿絵 5  海蔵庵窯 「銘々皿」

その中に白磁の蓋茶盌に錦窯による腥臙脂釉の細密な絵付けのある素晴らしい作品が10客揃って伝えられている。(写真26) 

写真 26 四日市萬古(幕末〜明治

海蔵庵窯 上絵蓋茶碗<高さ7.5cm>

田端教正作・内田又造絵

絵付けより受けるものは、信楽風とは程遠く、有節萬古を倣ったものと思われる。然しながらボデーの白磁が問題である。おそらく、白磁の茶盌を他窯産地から取り寄せて上絵付けしたものだろうと考えたのであるが、ボデーに教正師の用いた「萬古」の印があるので、海蔵庵のものである事を疑う訳にはいかない。何処の陶石を用い、どんな規模の窯で、如何に焼成したのか不明である。教正師以前は勿論、以後の萬古焼の中にも見る事の出来ない素晴らしい磁器製品である。この茶碗の底に錦窯にて「竃楽只画又造」と署名がある。(写真26)

写真 26

樂只は教正師のことであり、又造とは上島庄助の男で内田家に入婿した内田又造のことである。(おそらく明治になってからの作)この蓋茶盌に見られる如く教正師が並々ならぬ才能と研鑽によってハイレベルの作陶を試みたことは、四日市萬古焼の導火線としての大きな役割を果たしたものと言うべきである。

 一時は、ロクロ師 五、六人を抱えていた庄助窯の明治維新となり多羅尾氏の被護を失い、加うるに、上島家内の事情(長男久七は妻と三子を失い、久七は行方不明、庄助、中風に病む)によって、慶応年間に廃業のやむなきに至ったのである。

 教正師は明治十四年、八十三歳の高齢で世を去った。それより前に、焼物作りは止めていたものと思われる。

  庄助窯で働いていた陶工数名を引き受けて現在の近鉄阿倉川駅の北方の高台に登り窯を開いたのは金場(現四日市市羽津町金場)の藤井元七であった。

  この窯は、土瓶などの日用雑器を作っていたと言う。そしてその製品に「ひでの」の印を押した。「日での」は羽津の古い地名志で野(しでの)より出たものである。現在遣っている「ひでの」印の品物を観るに、意外な事は、その殆どのが桑名萬古風のものである。(手焙り火鉢、アワビ型鉢等など)(挿絵6ひでの印あり)

  この窯も数年で廃絶して、その陶工達は皆、のちの四日市萬古焼の中に吸収されていったのである。

  尚、数ある唯福寺の遺品の中に、後に記す盲人の陶工無限樂の作品によく似た薄作りの手捻りの急須がある。(写真27)

この急須に「丁未岡山と彫りがある。丁未は弘化四年(1847年)に当る。又、岡山とは昔の地名、朝明郡羽津村字岡山の事である。現在の阿倉川の西方の丘陵地垂坂山に当たる。この垂坂山は四日市萬古焼の主原料土の産出地である。この「岡山」銘は窯を表すものか、使用土を記したものか不明である。だが、幕末期に垂坂山に関連して手捻りの急須が作られて居たことの証拠であると言える。

  本格的な四日市萬古焼のスタートの直前に四日市より西へ少し離れた桜、菰野の地に焼物があったことを記しておこう。

『櫻焼』三重郡櫻村(四日市市櫻村)    (四日市市桜町)(挿絵7)

櫻焼「鮫肌徳利」と「星光山」の印あり

天保年間に石川平八郎という人が創めたもので、常滑の陶法に依ったものと伝えられる。作品は鮫肌焼と言われるものである。薩摩焼の蛇蝎釉とは異なり比較的薄作で肌も細かく雅趣に富む。銘印「星光山」が押されている。

『菰山焼』(三重郡菰野町)(挿絵8)

 これも天保年間、土井市蔵(号  済)が作り出したもので、茶器を主体としている。遺品は、殆ど楽焼の茶盌の類である。なかなか確りした作振りであり、茶の席に堂々と入り得るものである。「  斉」銘印の大皿で有節萬古風の色絵ものも遺存している。不明の点も多い。銘印は「菰山」「  斉」。


Comments are closed, but trackbacks and pingbacks are open.