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古きをたどって 14(最終回)


第十二節  戦災と復興

 

 昭和二十年六月十八日の大空襲で、萬古焼の製造設備の約八割と販売業者の施設は殆どは烏有に帰した。即ち

  

一、川原町方面(浜一色、新浜町、古川町、鳥居町等を含む)一帯    の地は、生素地屋、窯屋問屋及びその他の関係者は全滅した。

二、末永と三ツ谷は極く一部を残してこれ又全滅した。

三、阿倉川は三割程度が灰になった。

四、羽津方面は被害僅少である。

五、組合の共同施設は同業組合事務所、商業組合事務所及倉庫、工業組合共同販売所及倉庫等は皆灰燼に帰した。

 次で八月十五日敗戦となったが、業者の多くは疎開して広い野原の中で僅かに雨露を凌ぐバラック生活の状態を見て、萬古焼もこの災害でおわりを告げるのではないかとも思われ、復興は前途遼遠で見通しは着かなかった。

 然し乍ら、全国的な戦争の被害で、物資は極度に枯渇し国民はその日の生活にもこと欠く有様で、生活必需品である萬古焼製品の残荷を需めて、全国から商人が集中し瞬く間にこれを一掃した。

 阿倉川に残った窯元は資材をかり集めて、その要求の一部に応じて、復興の第1歩を踏み出したが、人心は未だ安定せず、前途の見込みもたたず、殊に物質の不足で復興は容易ではなかったが、日ごとに募るインフレの浪は物価の急騰でそれまで敗戦による放心状態出会った業者も、最早晏如たる生活は許されず、一方買付商人は日毎に殺到し、製品は急騰して好況を呈して来た。罹災者も元の地に帰り、住居よりは先ず生産設備に着手して窯を修理し又新築して、開業するようになって本格的な復興が始まった。

 そこへ昭和二十三年貿易の再開がこれに拍車をかけて急速度に復興した。

 全国の陶産地で罹災したのは名古屋の一部と四日市の萬古焼だけで、瀬戸、美濃、金沢、京都、信楽、三河、常滑、有田等は被害はなかった。萬古焼は大変貧乏くじを引いたわけであるが、業者の熱烈な復興心と力によって、今日(昭和三十年)では殆ど戦前に近いものとなった。今仮に他の陶産地で四日市程の被害を受けたとしたらその復興は数十年を要するであろう。又立地条件によっては再起不能となったであろう。萬古焼は新興の産地である、又業者にそれだけの力があったのである。

 

 生産設備の近代化

 

昭和二十六年山庄製陶所が重油を燃料とするトンネル窯を築造して、能力と経済の両方に従来の石炭窯とは比較にならぬ性能を発揮してから、現在では左記の業者が築造し、将来は大きくこれに代る傾向である。

 

    山庄製陶所    二基  

    笹伊製陶所    二基     

    森欽製陶所    二基   

    宮尾 商店    二基   

    富士硬質陶器   一基     

    カク本窯業    二基     

    ヤマホン製陶   一基築造中  

 

 このトンネル窯は戦前日本陶器、日本硝子等の大工場のみが有した施設で、その築造には莫大な費用と敷地を要する者で、一中小企業には困難ではあるが、品位の均一と生産原価減のためには、欠くことの出来ない設備である。

 なお一般の生産設備も近代化はしてきたが、萬古焼は被害復旧のために、工場の機械化は美濃及瀬戸に比して後れている現状である。

 

 

 

 

  戦後製品の変化

 

戦争によって朝鮮と台湾を失い中京都の貿易も再開されず、輸出向け品は国際関係上各種の制約をうけて、中々戦前の状態には復しないが、米国向品は相当な活況を呈している。内地向け品は戦後国民生活様式の変化で製品も大きく変わってきた。

 

一、輸出向品

 戦前に比較して品種には変わりないが、総体に形状は小型とな   り、稍手のこんだ精巧な細工を施すものと変わってきた。

二、内地向品

 戦前第一位であった水盤類(花器)は戦災によって、住居が狭少となり、生活様式の変化で「コンポート」花器が急速に売れ出し、現状では、内地向品の三十%以上を占めている。花瓶、火鉢、蓋物、灰皿等は戦前に変わりなく、土瓶は一時金属製品に代わったが、日本人の趣味と茶の味によって、最近復活の状況である。

 輸出向品も内地向品も戦後は余程品位は向上し、戦前の粗悪品は影をけして、萬古焼も落ち着いて一人前の製品となってきた。

 

 

 

石灰質陶器の完成

 

 石灰質陶器は、戦前笹岡伊三郎が軽質陶器を発明して、生産を続けたが、戦争を境にして、昭和二十五年から硬質陶器の製造に転換した。昭和二十三年五月館佐市が白雲陶器を完成してこれを輸出向けにしたこと、及び 宮尾商店が同系統の製品を完成して、大規模の生産に移して成功したこと、更に四日市研究所で「ボーンチャイナ」の研究と製品化に成功したことは特筆に値する。

 

 現在における品質別による生産額は大体下記の通りである。

 

一、赤土急須  (拓  器)     7%

一、大正焼   (一度焼き陶器)  62%

一、陶器    (普通陶器)     3%

一、硬質陶器  (二度焼き陶器)  20%

一、石灰質陶器            8%

 

 

 

 

品質別による窯業者(昭和三十年二月現在)

 

一、赤土萬古 (拓器)(内地向品)

  四日市煉瓦製造所  

  南山彦製陶所     三興製陶所

  山勇製陶所      丸林製陶所    村山製陶所

  秀山製陶所      万古新興窯業所  陶山製陶所

  有限会社万古製陶所  久志本製陶所   久保村製陶所

  永尾製陶所

 

二、大正焼及その類似品(普通陶器を含む)(内地向品)

  有限会社山彦製陶所  水政製陶所   加周製陶所

  有限会社山三製陶所  丸直製陶所   有限会社水鉄製陶所

  幸楽陶器株式会社   内田製陶所   有限会社竹内製陶所

  有限会社第一製陶所  木村製陶所   掘新製陶所

  有限会社三陶窯業所  泰月製陶所   加藤製陶有限会社

  有限会社光山製陶所  藤品製陶所   カネ茂製陶所

  飯田製陶所      水耕製陶所   山竹製陶所

  松岡製陶所      伊達製陶所   有限会社睦三窯業所

 

三、大正焼(輸出品)(一部内地向品を兼業)

  有限会社水源製陶所     マルエス笹岡製陶所

  株式会社四日市製陶所    白木製陶所

  有限会社カネ芳製陶所    有限会社南山彦製陶所

  合資会社岩田製陶所     有限会社昭栄製陶所

  三芳製陶株式会社      株式会社四日市七本松製陶所

  有限会社カネ半製陶所    平野製陶所

  陶栄製陶所         山梨製陶所

  森庄製陶所         藤政製陶所

  孤光製陶所         有限会社朝日屋製陶所

  有限会社真生製陶所     有限会社太陽貿易製陶所

  株式会社三和陶園      伊藤英製陶所

  株式会社三岐製陶所     山田製陶所

  丸一陶器有限会社      カク本窯業株式会社

  毛利製陶所         浜山製陶所

  太陽メタリコン株式会社   三協製陶所

  双葉陶器株式会社      旭興行合資会社

  有限会社恭和製陶所     山一石崎製陶有限会社

  合資会社泗水商会      有限会社カネ吉製陶所

  瀬栄合資会社        清水製陶株式会社

  有限会社丸新製陶所     千種貿易株式会社

  有限会社カク十製陶所    有限会社西脇製陶所

  内田製陶株式会社      有限会社ヤマホン製陶所

  有限会社二宮製陶所     カネ金製陶所

  藤総製陶所         榊原窯業株式会社

  宝徳製陶株式会社      有限会社阿須賀陶苑

  株式会社河村組       森欽窯業株式会社

  

 

四、硬質陶器(輸出品)

  株式会社山庄製陶所     笹伊製陶有限会社

  富士硬質陶器有限会社

 

 

 

五、石灰質陶器

  有限会社山形製陶所 (白雲陶器) 

  四日市研究所    (ボーンチャイナ)

  株式会社宮尾商店  (白雲質陶器)

 

 

 

 

 

 

 

    

 以上で今回の書物、「海蔵小誌 萬古焼の項」写し終えました。

今回も一番時間がかかったことは、旧漢字を読みこなすことでした。昭和30年代のことを記していくにも旧漢字が登場します。一人で読んでいく分には、漢字の意味が理解できれば、文意を大きく間違えることはない・・・と思っているのですが・・・読めないと、パソコンで漢字を探すことができません。漢和辞典が手元になく、おおよそは「手書き文字ナビ」にて見つけることができました。戦前から戦中、戦後にかけてのこの地域のかいまを知ることができました。この作業は、書くことは、読みこなすこと。素敵な時間でした。グランマにとって、とても興味の湧く書でした。ありがとうございます。と、先人皆々様に御礼申し上げます。