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弄山翁の絵の師は?


古ばんこあ
 
沼波弄山翁からなかなか抜け出ることができません。
ほんの少し学んだだけですが、それだけ魅力的だということですね。


時代背景が違いますので今の日本の常識では考えが及ばないことが
たくさんあることは、承知の上でも、
首をかしげること多々あり・・・


前回は、「幼少より、茶の湯に親しむ」から
茶の湯について少々学んだわけです。


でもまだまだ納得までいかないのです。
幼少っていくつの頃のこと??


とか、疑問符が残っちゃうんです。




さてさて、ともかく前に進まなきゃ!!


幼少より、京都の千家で茶の湯に親しんだ弄山翁
器に関心を持ちます。


京焼と出会うわけです。




本日は京焼をちょっと覗いてみることに致します。




京焼


京焼は日本の陶磁器の一種。
粟田口焼,御室焼など京都で作られる作品の総称。
一度焼成した後に上絵付を施す技法を用いた陶器が多い。
作家ごとの個性が強いのが特徴。




京焼の始まりは、慶長年間初頭の1590年代には
京焼の生産が始まっていたと考えられている。


このころの作品には不明な点が多い。
鉛を含む釉薬が使用されていて
技法やデザインが多様なことが特徴。




この時期以前の京都は、
三条粟田口界隈に陶磁器の窯元が集中し、
粟田焼が生産されていた。


天正年間以前の16世紀中ごろには
三彩や交趾焼などの技術を持った中国人陶工
およびその後継者達が製陶を開始していた。


翠、紫、紺、黄など寒色系の釉薬が特徴、
押小路焼のルーツになったと考えられている。




色絵陶器


17世紀に入ると、茶道の興隆に伴って茶碗、茶入れなど茶陶の製造が盛んになった。




具体的には瀬戸焼、美濃焼や唐津焼の職人と
その技法をベースとして高麗茶碗の写しなどが作られている。
こ゚のころに黒谷土と呼ばれる製陶に適した原料土が
地元の山城国で発見されたことも陶磁器の生産の助けとなった。


京焼の中で最古の部類に入る粟田口焼は、寛永年間には
粟田口で生産を行っていた。
ここでは中国の茶器や写しや天目茶碗が作られた。


同時期では八坂焼は1640年、清水焼は1643年までには
存在が確認されている。
これに続いて御室焼、御菩薩池焼、修学院焼なども作られた。


このような中、慶安3年(1650年)5月25日に
金森重近(宗和)が参加した茶会に関する記述の中で、
絵付けを施した御室焼の登場が確認されている。


さらに、翌年か、翌々年には赤色系の上絵付を施した
御室焼が野々村仁清によって初めて作られた。
調合・焼成の困難な赤色系の絵付けを17世紀に成功させたのは、
磁気を国内で初めて製作した伊万里焼(有田焼)以外では
これが唯一の例であり、
かつ、陶器では国内初であった。






野々村仁清の死後、跡を継いだ息子は技量が及ばず
製陶から手を引いた。
しかし仁清から直接学んだ尾形乾山は優れたたくさんの作品を残した。




また 永楽了全より後の永楽家は、保全、和全など優れた陶工を輩出し
千家に作品を納めて今日に至る。




明治維新後は体制や文化の変化に伴って
茶陶の需要が激減し、廃業した者も多い。
また、陶工の一部は日本陶器(現、ノリタケカンパニーのような
企業組織に入っていきその技術を伝え、支えてきた。 

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