京都のやきものを、総称として京焼と言うのなら、
四日市で焼かれている陶製品を四日市萬古焼と言う・・・
ってよくにていますね。
私は、昨日まで 京焼を思い違いしていました。
やはり 学んでみなきゃわからないことって、たくさんあります。フムフム。
本日も京焼について 学んでいきます。
なぜなら、わが、四日市萬古焼の開祖、沼波弄山翁は、京都で茶道を学び、
尾形乾山から 陶芸を学んだと言われているからです。
弄山翁の師にあたる尾形乾山ですが、
近世の京焼が飛躍的に発展を見せたのは、江戸時代前期に野々村仁清や尾形乾山が登場してからと言われています。
京焼最大の特色である色絵を完成させ、絵画的な意匠を駆使した独自の陶器へと変貌していきました。
尾形乾山
乾山は、寛文3年(1663)京都の富裕な呉服商、尾形宗謙の三男として生まれる。
兄は画家の 尾形光琳である。
二人の性格は対照的で光琳が派手好みであったのに対し、乾山は内省的、隠遁的な性格の持主であったと言われている。
野々村仁清に陶芸を学んだ乾山は元禄12年(1699)37歳の時京都の鳴滝に開釜。
正徳2年 50歳の乾山は京都市内の二条丁子屋町に移住。
多くの作品を手掛ける。
「乾山窯」として世にもてはやされました。
鳴滝時代末期から この丁子屋時代にかけて、兄光琳は絵付けで乾山を助け、兄弟合作の作品が数多く残されています。
享保16年(1731)69歳の頃に江戸に下り、寛永寺嶺入谷に、築窯して萬年を送ります.
乾山の作品は、陶芸作品のみならず、書や絵画においても、俗気を脱したおおらかで、文人的な洒脱味があります。
陶芸作品においては、成形、施釉、焼成は、他の専門的な陶工に任せたり、
絵付けにしても、光琳との合作以外に複数の専門画家が携わっていたと思われるなど、基本的には工房生産という態勢をとっていたと思われています。
乾山の指導のもとに作られたやきものには、その大胆なデザイン感覚とともに、
乾山特有の芸術性が溢れ、乾山その人とふれあうような親しみが感じられるのです。
乾山を調べていくと、こんな感じの記載に出会います。
こうなると琳派、野々村仁清についても 概略だけでもおさえておきたくなってきますね。
ばんこグランマ 数馬のつぶやきでした。