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四日市萬古焼陶祖 沼波弄山翁を学ぶ 


 

 

弄山

学び学び、続きです。

 

 

 

よっかいち萬古焼の開祖、沼波弄山翁のことは、ウィキペディアでも調べることができます。

 

 

私が、出会いを嬉しく思い調べていること言っているものですから、

 

 

多くの方がいろいろと教えて下さいます。

 

 

今回は、そのお貸し下さった資料のなかの沼波弄山翁についての学びです。

 

 

萬古焼陶祖 沼波弄山翁

(1718~1777)

 

 

萬古焼は桑名の豪商、沼波五左衛門弄山が 

江戸時代中期、元文年間(1736=1740)に

はじめたもので、その作品は、後の再興萬古に対して

古萬古と呼ばれている。

 

沼波家は天象・慶長(安土桃山時代)より連綿として

続いている家柄である。

古くは有力な豪族であったとみられるが、

廻船問屋を経て、なぜ,いつごろ商人になったかは定かでない。

 

弄山は号で、本名は沼波五左衛門重長と云う。

 

桑名船馬町住吉の陶器問屋の子として生れる。

他に、茶道具、酒、醤油と手広く商う。

 

幼少の頃から大変、利発な子であった。

九歳の時、八代藩主松平忠雅の御前で

漢詩千字文を書いたと沼波家代々言い伝えられている。

そのころから、京都茶道の表千家は遊歴し

六代目 千覚々斉や、七代目如心斉の教えを受け

奥義を窮め自らも方寸斉と号いた。

 

又、京焼にも興じ 尾形乾山京焼を学び、

その天才的な技と、あか抜けした独創性は

乾山をも驚かすくらいであったと、言われている。

 

十代後半に桑名は戻り、しばらくして沼波家の領地であった

三重郡朝日町小向(今の東芝三重工場辺)の名谷山の土が

焼き物に適していたことから小向の別荘内に登り窯をつくり

焼き物を作ったのが萬古焼の始まりである、

 

大変見事な物で、その名声は江戸まで響き、将軍の耳に入る。

 

将軍の命を受け、弄山夫妻江戸へ出府。

弄山、三十代後半のことであった。

 

江戸 向島小梅の別邸で登り窯を造り、江戸でも有名になった。

当時、沼波家は江戸 今川橋北詰西側に江戸の支店があり、

数寄屋道具(茶道具)の将軍家御用達の承認でもあった、

 

安永年間、時の十代将軍徳川家治の要望で、

弄山、家治に謁見し、萬古焼の手法を披露し、献上した。

弄山五十代の頃である(天明六年再度十代将軍家治(御本丸俊明院)と

十一代将軍家斉(西本丸文恭院)、釜場へ来訪している。

 

弄山は当時、大変高い教養と優れた文化人でもあった、

そのことは、独特の赤絵や紅毛文化、西洋風への憧れ、

象やライオンの図柄やオランダ文字をあしらった作品からもうかがえる。

当時 弄山は江戸にて蘭学者で解体新書を著した杉田玄白や

物理学者、エレキテルの平賀源内とも交流があったと言われている。

 

弄山の作品萬古焼を、古萬古と呼ぶ。

精巧な盛さん瓶や、赤絵輪花、幸輪鉢も古萬古独特のものである。

 

作品のウラの銘印「萬古不易」は屋号からきているともまた、

優れた作品の永遠の生命を自負しての命名とも言われている。

 

弄山 六十歳で江戸にて没す。

 

墓所は桑名氏新町の浄土宗光徳寺にあり、県の指定文化財史蹟でもある。

 

 

以上は 平成元年八月に 現存の弄山より9代目、沼波家15代当主の記録されたものを参考に写させていただきました。

 

実は、沼波家が桑名に移り住む前の来歴も15代当主は記述されています。

 

歴史ってかくも面白いものなのですね。

 

さてさて、本日の学びのなかで、茶道のことや、乾山のこと、京焼など、

学びの広がりbを感じています。近日中に学びましょうアップ

 

 

ばんこグランマ 数馬桂子

 

 


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