世評が高く、売れ行きの良かった有節萬古に着目して、有節亜流の萬古焼が、幕末から明治の初めにかけて、桑名のあちこちに興った。
桑名は旧幕時代、参勤交替の諸侯の宿所に当たり、維新後も宿場として頗る殷賑を極めた。その旅人の土産物として桑名萬古は、好評を博し盛んに製作された。
有節萬古の項に引用した川喜田家の書留のなかに、『模造の窯所追々出来、桑名飲みにも二十余窯に及べり』とある。聊かオーバーであるが、その繁昌の模様を想像する事ができる。
『安永萬古』桑名萬古のリーダー佐藤久米造の製作したものである。
彼は桑名矢田町の人で文政二年(1819年)の生。
佐藤家は弄山の娘婿である桑名矢田町の旧家近藤善吉の親戚であった。彼は元刳物師出会ったが、或る時森有節から、その創案になる木型見本を示され、その複製を頼まれたが、なかなかその構造が判らず、苦心の末、それを水中に浸して分解観察し、無事注文に応ずることが出来た。有節以外誰も知らなかった木型の仕組みを理解した久米蔵の評判は広まり、長嶋藩主増山候に大砲鋳造の為武器方として招かれ、三人扶持を給わせられたと云う。
安政三年(1856年)には、竹川竹斉の射和萬古の開窯を手伝ったが、有節萬古の人気に刺激され、藩公の許を得て、長嶋城内松ケ鼻に築窯製陶を試みた。
廃藩後、安永の町屋橋北詰に窯を築き作陶、彩料と本金の用法を苦心研究した。
彼は竹斉から古萬古使用の丸型に萬古横列鋳鉄の印を贈られ、自ら萬古の正統を称して居た。
明治十四年(1881年)歿、その弟子に松岡鉄次郎、堀友直、加藤権六、水谷孫三郎、加藤茂右衛門、山本数馬等がいる。
佐藤千代造 久米造の長男、父と共に政党に従事したが病弱のため、父歿後、其の窯を松岡甚兵衛、松岡鉄次郎に譲り、桑名八幡瀬古に移り、小窯を築いて温故焼に類する品を作って一窯を出したが明治十六年(1883年)三十一歳で歿した。
松岡鉄次郎 安永の松岡甚兵衛の長男、文久元年(1861年)生、久米造の窯を継承して盛んに茶器等を製し、四日市川村組を経て九州及び外国へ輸出した。明治35年(1902年)四十五歳頃は最も盛んであったが、その後漸次縮小し、六十五歳で廃業した。その製品には、凡て『桑名萬古』の印を押した。
水越与三郎 萬古の画工、松岡鉄次郎の窯で絵付けをした。
『布山萬古』(ふざんばんこ)布山由太郎 通称庄吉、号布山、春景、翫土仙、美濃の人で二十九歳の時、桑名に移住して製陶三昧に耽った。彼は窯を所有せず、所々の窯に雇われて製作したが、絶対に素人の依頼に応じなかった。
たたみ作りの名手で作品は西洋風のものが多かった。
大正元年(1912年)歿七十七。銘『布山』『布山春景』等、養子駒次郎が二年間父の業を手伝った後薬酒商に転じた。
『孫三萬古』 水谷孫三郎、桑名舟町の人、佐藤久米造の門、亀の手捻りを得意とし、型製及び手捻りの急須が多い。大正五年(1916年)歿、年六十八、銘は『孫三』『九花萬古』『日本孫三造』
『権六萬古』加藤権六、桑名矢田町のひと、号を翫土庵可笑といい、佐藤久米造作の門弟、千秋流の型急須の名手であった。昭和六年(1931年)没年九十三。
『走井萬古』 加藤茂右衛門、寛政十一年(1799年)西桑名太夫の旧家に生る。佐藤久米造より陶技を習得し、明治十一年(1878年)京都より精華なる陶土を聘し、走井山山麓に築窯製陶したが、暫時にして廃した。織部写しの向付などがのこっている。銘『走井萬古』明治二十二年(1889年)歿九十一。
精華 京都円山の人、明治十一年(1878年)頃加藤茂右衛門に招かれて来桑、後四日市阿倉川唯福寺に仮寓し、山中忠左衛門の窯にて作陶に従事した。また窯道具も作った。
『精陶軒萬古』 松村清吉、桑名鍋屋町の人、明治十二年(1879年)桑名藩士川澄明等と共に陶器工場精陶軒を開いた。開窯約十年にして閉鎖した。明治38年(1905年)歿す・年六十二歳。
千葉秋月 名は精光、通称清次郎、桑名宮通り伊藤勘三郎二男、家は代々藩の塗り師家業を修めて其の技に長じた。また絵画、彫刻及び製陶に巧みで明治12年(1879年)精陶軒職工の教頭となる。主に手捻りや絵付けを指導した。明治四十二年(1909年)歿七十五歳。
『天神萬古』 後藤秀信、 朝日町縄生天神宮の神主、後藤家十三代、性風流を好み、天神山附近の赤土、白土を採り、手捻りで茶器を作り、又自ら釉薬を研究して之を施し、其の作品を人々に与えた。世にこれを天神萬古と呼んだ。明治六年(1873年)歿五十一。嗣子隆政(大正九年歿)、孫政義(昭和五年歿)が先業を継ぎ、昭和初頭休業す。銘「天神萬古」「萬古」等がある。
富次郎 天神萬古の陶工、後森翠峰開窯の際森陶華園に移った。
桑名萬古2は次回です。
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