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今だからこそ22 (八)四日市萬古焼 1


1 文政十二年(1829年)の開窯 (上島庄助窯、海蔵庵窯、藤井元七窯外)

 文政10年ごろのある日、四日市市の商家海老屋七郎兵衛は親戚の信楽の陶工上島庄助(うえじましょうすけ)を伴なって、旦那寺である町の北西にあたる東阿倉川の唯福寺に参詣した。

七郎兵衛はかねがね唯福寺の住職田端教生師が、陶業に並々ならぬ関心を抱いていることを知っており、師に上島庄助を引き合わせる為であったと思われる。

 帰り途、庄助は同寺の門前を流れる溝川に露出している粘土が良質の陶土であることを発見した。このことを教生師に伝えると、教生師は大変乗気になり、自分が資金の方の面倒を見ることとし、唯福寺前に信楽風の登り窯を作って庄助とともに作陶をすることとした。だが、開窯するには色々な難問が待ち構えて居た。

先づ、窯を築くために必要な炉材の問題である。

当地方では耐火粘土を得ることは容易なことではなかった。附近各所の土を採集して研究を重ね、遂に庚申山の土を以ってこれに当てたものと思われる。唯福寺に現存している「ハシラ」「サヤ」等によってこれを認めることができる。(挿絵2)

次に、製陶に要する多量の陶土の採掘地である。

これは、唯福寺前の後藤氏の屋敷に依ったものと思われる。これにも色々な問題があったろう。この土は赤みを帯びた極めて緻密で、焼き上がりに独特の風味を持つ良質のものである。

 肝心の陶工と道具は、庄助の出身地である陶業地信楽から招き、取り寄せた。

 大へんな苦労の末、開窯したのは文政12年(1829年)の事であった。製品は信楽風の灰釉を施した茶器、食器、台所用品であったと伝えられている。

当時四日市の地は、徳川将軍家直轄の地、いわゆる天領であり、近江信楽の代官多羅尾氏の兼務による統治下にあった。信楽の出身である庄助は、多羅尾氏の求めに応じて代官所の御用窯となった。全ての製品を多羅尾氏に納めた為、一般民家へは渡って居なかったのか、今日遺品をほとんど見ることが無い。

 幸い唯福寺に挿絵1の飯茶盌が伝えられている。この茶盌は底に庄助の雅号である「器楽」と言う印が押されて居り、比較的小ぶりの上品なものである。今日では、この茶碗のみにて、当時の庄助窯の技量と傾向を想像するより手だてが無い。

後に、明治の四日市萬古焼の中で、ロクロの名手として活躍した益田佐造は、信楽から来てこの窯で働いていた。

(八)四日市萬古焼 の項 次回に続きます。


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