(七)本焼成工程
当初は噴出窯と称し、平地窯と登り窯があるが、共に煙突が無かった。明治末年には煙突が作られる様になった。
この窯は導木(最下部)に火入れし、上に向かって一間ごと左右の両方から松割木を投げ入れて炊き上げて行く。焼成は一度焼きであった。一度焼きとは素焼しないで乾燥した成形品を還元炎焼成する事である。
この焼成法は、ひずみ、切れ、ぶく酔い等の欠点を生ずる事が度々であった。
最高温度と窯内の温度均一を充分に考えて、ねらし焚きをする必要があった。
この焼成法を完全に習得するには、長い年月の経験の積み重ねを持たなければならなかった。
山中忠左衛門の窯が「製陶法雑集」に記載されている。
窯の寸法は、
高さ 内法四尺三寸五分より四尺五寸
長さ 二丈 但外法
横幅 七丈
斜度 一尺に付三寸
火炉の寸法
高さ 三尺一寸五分
横幅 三尺一寸五分
長さ 二尺七寸五分
火口 七寸五分四方
第一窯は十時間にて焼成し、第二窯は六時間、第三、第四窯は各四時間にて焼成す。斯く時間の減少せるは初めの火熱を受れば也」と記録されている。(挿絵26)
(八)上絵付け工程
上絵法は有節萬古を倣った粉彩盛絵法が主として行われた。彩釉の調合は前述した。
酸化錫の「白盛り」という顔料をベースとして、これに式最料(ほとんど和原料であった)を混ぜて描く盛り絵の法である。
上絵付け工程は、先づ器面に「にかわ」引きをし、墨或いは地黒、つや黒で素書、下書きをする。そしてその上に彩色をして行くのである。この時、盛り上げ、ぼかし、線描き、たたき、イッチン、刷毛目の技法が駆使された。
有節萬古の絵は幕末に流行した復古大和絵(田中納言らに依る)の画法であった。有節の絵の師は桑名の大和絵画僧帆山唯念(花乃舎)であり、草花を主とした華やかな画風であった。また、十錦手と称する臙脂と薄緑を地塗りしたものがあった。
四日市萬古焼はこの有節の法に依ったとは言え、聊か趣を異にした。四日市萬古焼の初めには本業の絵師の酸化は無かった様である。山中忠左衛門は旅の画人を引き入れた事もあったと言う。画題として一番多く見るものは鶴である。草花に鶴、千羽鶴等は明治時代を通じて四日市萬古焼の十八番であった。(挿絵10、33、39)明治時代は圓山四条派の全盛期であった。南勢の四条派画家磯部百鱗に教わった画人が四日市萬古焼に現れた。田中百桑、水谷百碩、坂井桜岳らで、彼らはそれぞれ上絵画工の親方として活躍したのである。
これらの画人の作品で、金や黒を基調とした四条派の得意画題を描いたものがある。挿絵29、30の絵は京都の画人青木遷橋と言う人の絵と言われている。これも四条派の流れを汲むものである。
挿絵10 四日市萬古「木型作り鶴の絵土瓶」(明治)
挿絵29 四日市萬古「手捻り徳利一対 山本利助作」(明治)とその銘印
挿絵30 四日市萬古「手捻り獅子つまみ土瓶 伊藤豊助(明治)とその銘印(左
挿絵33 四日市萬古「木型作り千羽鶴紋急須」伊藤弥三郎作(明治)と銘印
挿絵39 四日市萬古「木型作り千羽鶴紋急須」太田仁左衛門(明治)とその銘印
(九)上絵付け焼成工程
上絵を終わったものは上絵窯によって焼き付けられる。四日市萬古焼では挿絵27の窯を使っており、錦窯(きんがま)と呼んでいる。
(十)金銀彩絵付、焼成工程
器面に先づ「にかわ」引きをして金彩銀彩を線描き、盛り上げ、重ね塗り、たたき等の技法で着彩して焼成するのは前項と同じである。
四日市萬古焼の中で、明治中期の田中百桑が考案して人気のあった二重金とは、一旦金で地塗りをした上へ、ツヤ黒で絵を描き、その上へ、再度金を塗って焼き上げるものであった。
以上、詳述した工程の中に書けなかったものに、着色した異なった土に依る切嵌め、友禅と練り込みの法があった。(挿絵28)
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