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今だからこそ49 15木節粘土の問題


 

 

四日市陶磁器工業は、昭和になってからも発展の一途を辿り、生産額が急激に増大したばかりでなく、全国的な地位も高まり、昭和元年には、全国生産額の4、7%を占めていたのが、昭和5年には6、2%となり、以後ずっと6%前後を占めることとなった。

  このような四日市陶磁器工業のいちじるしい発展に対し、瀬戸の陶磁器工業者一部では、同10年頃、愛知県に陳情して瀬戸産原料の県外移出の禁止をはかった。

  大正焼の主原料である木節粘土は、ほとんど瀬戸産に依存していたのであるから、四日市陶磁器工業としてもこれは重大であった。

  そこで、万古陶磁器工業組合では三重県と協議の上、県産伊賀の木節粘土に転向すべく産地採掘業者とも交渉し、他方では組合直営の採掘も考え、また大正焼の品質改良の試験を行うなどして、いつ瀬戸産木節粘土の移出禁止をうけても差し支えないよう準備を整えていたがその後、瀬戸においても移出禁止の問題は達消え隣また伊賀の木節粘土は不適当であることもわかったのでそのまま瀬戸産の者が使用されることになった。

 

 

 

16 第二次大戦と萬古陶磁器工業

 

(一) 戦時の対策

  昭和12年、日華事変がはじまり、民間物資が急激に欠乏してきて、石炭などは個人では入手が困難になった。そこで日陶連では、商工省に陳情して陶磁器用の石炭の割当を確保し、それを各所属組合に割り当てた。所属組合では、さらにそれを各組合員に割り当てた。

  その後、対米関係が悪化してきた昭和13年には、四日市陶磁器工業生産額の60%以上を占めるアメリカ向輸出が、日貨排斥によって激減し、またアメリカ以外への輸出も減少してきたので、萬古陶磁器工業組合では、この非常事態に対処するため、日夜競技を重ね、種々研究した結果、次の二つの案を得た。

   第一案は、耐火煉瓦の製造に転換すること。

   第二案は、耐酸瓶の製造に転換すること。

 上記の二案であったが、原料技術、既存設備の利用、販路、金融、その他の諸側面から、さらに慎重な検討を加えた結果、耐火煉瓦に転向することに決し、組合役員は、係を分担し、窯業試験場は技術面を担当して生産の準備をととのえた。

  この頃、三重県下の鉄工業者は軍需品の下請けを開始し呉海軍工廠に納入する契約を結んでいたので、県商工課長の斡旋によって、この耐火煉瓦も軍需品として、同工廠に納入する契約をした。その後も引き続いて新規の契約をしたり、他の工廠や会社にも、納入するようになって一時は耐火煉瓦の生産地化した。

  しかし、太平洋戦争が始まって、石炭の入手は殆ど不可能になり、従業員も次々と応召したり徴用されたりしたため、耐火煉瓦の生産も次第に縮小せざるを得なくなった。

 

(二) 代用燃料と代用品

  日陶連配給の石炭も途絶えた。代わりに松割木、柴、ピッチ、竹材、コールタールなどを手当たり次第に燃料とし金属代用品として鍋釜、湯沸、ガスバーナー、焼網、仏具などを陶磁器で生産したり、銑鉄の不足を補うため、酸化鉄を焼成したり、暗梁排水用の土管を生産したりして、四日市陶磁器工業はその存続をはかるため、必死の苦労を重ねた。

 

 (三) 企業整備   

  昭和17年に企業整備が施行せられる。平和産業を縮少整理してその余剰の設備と労力を軍需産業に振り向けて戦力の増強に充てたのが企業整備である。

  これまで萬古焼業者は、個人経営であったもの百数十工場を法人企業体30社に合同整理した。企業合同体に参加するものは、所有の設備財産を会社に現物出資して合同し、不参加の者は残存企業体より補償金をうけ、又その所有設備を国民更生公庫に譲渡し、営業権を放棄し他に転業した。

  これは半強制的の処置で業者は不満であったが、国のためと諦めたのであった。

  かくして戦争の激化と共に諸物資は極度に不足し、萬古焼の遊休設備は軍需及び、食料工業の資材に充てたので、終戦前には陶器の製造は殆ど不可能の状態であった。この間、萬古陶磁器工業組合は、昭和17年に三重県陶磁器組合に改組され、さらに昭和19年には、三重県工業統制組合に改組されている。

 

 

 

 

私達が見過ごしてはならない時代の歴史です。

読み進んで行くうちに、身体が強張って行くのを感じました。今までも展示品で、代用品・統制品など、説明をさせていただいていましたが、このわずかな記述からでも、あってはならない時を思います。今回の項、もう少し詳しく知りたいと思います。