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古きをたどって 5


 第四節  萬古焼の創始者

 

元文年間桑名の豪商(陶器商 一説には肥料商)沼波五左衛門は茶道を好み自宅に楽焼の窯を築き、自ら作り焼いて楽しんで居た。後に藩の許可を得て三重郡小向村に本窯を築き、其の地の土で京焼きの作風に改良を加え明陶の赤絵を更宝に舶来の和蘭交趾を模し独創的陶器を作り「萬古」又は「萬古不易」の印を其の製品に捺して自らは弄山と号した。暦年間将軍家の御数寄屋道具製作の御用を承り江戸向島小梅に窯を築き、桑名から原料を運び多くの陶工を集め自身も江戸に移り製作に当った是れが即ち江戸萬古である。

 斯くして弄山は安永六年六十歳で没するまで焼き続けた。萬古の名器の多くこの小梅で作られている。

 弄山は絶世の名工と申すべきで今に遺る其の作品は古萬古と称し珍重なるものである。その作品は土質の関係で染め付け物は少なく間取りに南画風の山水を入れた更紗模様の赤絵物が多い。弄山には後継者無く一代で廃絶しているがその弟子「瑞牙」によって安東焼が生まれ更にこれが後の阿漕焼となっている。

 

 1 有節萬古   天保二年三重郡小向村(朝日町小向)に桑名の森有節(通称与五左衛門)が築窯し弄山の子「雅長」の許を得て萬古の再興を図り字谷山の赤土と白土を採って焼き「有節萬古」と名乗った。

 有節は萬古の名称を継いでいるがその作品は自己の考案による製陶技術で新機軸を出している。即ち、木型による製法、紙型を用いて釉薬の吹き付け模様、切嵌細工、切継細工、木理、モミコミ等の新製作方法又釉薬にも特に腥臙脂薬の発明は当時世人を驚嘆せしめた。

 なお有節は弟「千秋」(通称与平)と共に桑名の名画僧輪宗寺「花の舎」に師事して大和絵を習い自己の考案になる「白絵盛上げ」の画法により草花を画き、これが器地の色合いに調和して優美な有節萬古を完成した。

 この有節の製陶技術が業界に尽くした功績は偉大なものである。殊に木型による製法は昔支那の古陶にあるも我国では始めてのものであった。その頃殷賑を極めた七里の渡し桑名の宿にこの有節萬古が名物となって旅人の好評を博した。有節の没年明治十五年四月七十五歳、千秋、元治元年八月四十五歳。

 

 

    1,有節萬古が、ようやくです。明日は 2、桑名萬古に進みます。本当は、グランマが、   引っかかった言葉の意味を一つずつ丁寧に紐解いていったほうがいいんですよね、と、思いつつ。