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古きをたどって 6


第四節 萬古焼の創始者 

 

2 桑名萬古

 

 利に聡い桑名の商人は有節萬古の売行きを見逃さなかった。苦心の末有節の陶法を探り得てこれを模造し、土産物工業として発生したのが桑名萬古である。

 幕末から明治にかけて桑名の町には至る所に何々萬古と各自名称の看板をかけて店頭で売っていた。是等は安価な土産物が目的であって品質も粗悪なものであった。専門の技術者は少なく素人の家内職を利用したので有節萬古とは比較にならぬ低級品出会った。

 又その業者に積極性を欠き土産物以外に進出せず、関西鉄道の開通は宿駅桑名の衰微となって桑名萬古も消えていった。

 明治三十年ごろ作の鉄道唱歌の一説に「勢州桑名の産物は萬古の陶器に桑名盆、時雨蛤そのほかに白魚漁業の名も高し」この歌のでた頃には桑名萬古は終わりに近いころであった。盛時十戸を数えた窯元も次々と廃業してその関係者から何らかの形で四日市萬古が吸収した。然し桑名萬古からも仲々名工が出ている。「布山」「孫三」「権六」「精陶軒」

等は著名である。

 

3 四日市萬古の創始者山中忠左衛門と堀友直

 

 さて四日市における萬古焼は嘉永六年より末永村(現在の川原町)の山中忠左衛門がその生産を企図して有節の陶法を採り入れんと苦心したが有節はこれを厳に秘して開かなktたので桑名萬古や、伊賀焼の陶法について研究をはじめ桑名から職人を入れ、また通りすがりの一宿一飯の旅の職人より技術を採り、土地の貧者や失業者に技術を授け過分の賃金や食を与える等その犠牲は莫大なものであった。明治三年に至って成功したのである。

 山中忠左衛門は末永村の旧家で大地主であったが、この萬古焼の研究と品位の向上とこれを地方産業化するため巨額の資産を投入して四日市萬古の基礎を作った大恩人である。明治十一年八月、五十八歳で殉じた。一左楽は二代め忠左衛門の雅号である。

 また三谷の堀友直は、旧幕のころ、長島藩士であったが、幕末の世相をみて商人を志文久元年から桑名萬古の研究を続け同藩士の手内職に生素地の製法を教え作らしめ、自宅の窯を築いて焼いていたものが維新となり将来の発展を期して明治四年、三ツ谷に移住して窯を築き萬古焼を輸出品とする目的で開業し横浜に支店を設けるなど萬古焼輸出の先覚者である。

 

4 伊賀焼系統の上嶋庄助、田端教正、藤井元七

 

 文政十二年東阿倉川の唯福寺前に伊賀焼の陶工(滋賀県信楽の出)上嶋庄助が窯を築き信楽から工具や職人を入れて食器厨房品の製造を創めた。これは唯福寺住職川端教正の出資であって教正もまた寺内に窯を築いて趣味の陶器を造った。

 庄助窯はのちに四日市の代官多羅尾氏の御用窯となったが明治維新となり家庭の事情その他で廃業した。然しこの庄助窯は四日市における最初の陶業であって、その創始は有節が小向で開窯する四、五年も前のことである。その職工数名を受け継いで羽津村(金場)の藤井元七が阿倉川駅の北で窯を築き庄助窯同様の製品を造り「ひでの」の印を捺していた。「ひでの」は即ち志氏野のことで羽津阿倉川の古名である。

 山中忠左衛門が試験研究の頃、この元七窯を使用し、その後、堀友直が長島から来て、この窯を借り受けて事業を開始したのが萬古焼最初の窯である。山中忠左衛門は、阿倉川の庄助窯に就いても陶法の教えを受けた。 

 斯様な経緯で四日市萬古は誕生した。

 

 

 第四節 萬古焼の創始者 の項は まさしく「四日市萬古焼は、この様にして誕生した」ということで読了です。このくだりは、新参者の私でも、今までに数冊の書物で知ることができました。この文献は、地元、海蔵地区の冊子ですので、肌近い感覚を覚えます。目の前に江戸末から明治初頭の光景が巡ってくる様でした。もちろん、登場人物のお一人も私に近しい人がいるわけではありませんが、なぜか、お声まで聞こえてくる様な、不思議な感覚でした。私は、育って二十四歳まで、関東に在し、誰一人、見知る人のいなかったこの地にきました。まさしく「縁あって」としか言いようがなく。歴史は素敵です! 次は第五節です。