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古きをたどって 12


第十節   生産と販売統制

 

一、工業組合

 昭和四五年頃になると不況は愈々深刻となり、輸出陶磁器の本場、瀬戸及び岐阜県方面では、非常な滞荷となり業者の濫売は停止することが出来ず、業者共倒れの様相となって来た。昭和三年に瀬戸、昭和五年に岐阜県の各産地に工業組合を設立し、名古屋にその連合会を置き、製品の製造と販売の統制を実施した。これが日本陶磁器工業組合連合会(日陶連)である。当地においてもその翌六年八月八日に、萬古陶磁器工業組合(理事長山本増治郎)を設立し、日陶連に加入した。然し萬古焼製品は、瀬戸や岐阜県の磁器製品とは品質においても品種においても、是等と競争する度合は極めて少なく、従ってその協定の要もなく、日陶連加入は意味が薄弱であった。

 

 

 

 

二、内地向品の統制

 然し萬古焼自体の製品(内地向)は、生産が過剰し価格は下落して休廃業又は倒産する者を出す情勢となって、工業組合設立と同時に、夏目型9寸火鉢の統制を実施し、翌七年一月水盤、引続き蓋物、赤土急須、神陶器等規格を統一した。品種に対し生産の割当、共同販売と製品検査の厳格なる統制を実施して効果を挙げた。

 

 

 

三、 日陶連の製造権

 その頃瀬戸や岐阜県に於いては、主要製品の全部を統制し、生産の制限によって価格は維持されたが、過剰の設備と労働力を統制品以外に求むる傾向が顕著となった。その第一の目標が四日市の大正焼に向けられて来た。特に岐阜県の滝呂と瀬戸の一部に半磁器と称し、大正焼と同一品質のコーヒー碗皿土瓶三ツ揃皿類の相当規模の製造が始まっており、将来益々成長する傾向にあり、而も統制外の取り扱いを受けていて、四日市の大正焼の領域を侵して来たため、コーヒー碗皿を日陶連の製造権制度により、権益を確保した。

 

 

 

 

四、硬質陶器の統制

 大正焼製品に対する日陶連との関係は前述のような次第であるが他の産地と共通する製品は川村組の硬質陶器タイルと山庄製陶所の硬質陶器肉皿スープ皿丼で日陶連の統制品となった。

 

 

 

五、工業組合の共同施設

 又工業組合は昭和七年と八年の二度商工省の共同施設補助金を得て製土の共同工場と事務所及び共同販売所を建設し、陶土の改良を図ると共に地区内の製土業者を組合に加入し、陶土の統制を実施して製品の全面的向上を図り、また製品の保管倉庫を建て共同販売事業を強化「した。こうして工場組合は生産と販売統制を強化し、日陶連を通し全国の陶産地との協定を図ると共に共同工場の利用と陶土の統制に依って、業界は工業組合が中心となった。これは当時の国策として、生産者を助成した政策の表れである。

 

 

 

 

六、商業組合

 昭和八年に商業組合法制定され萬古陶磁器卸売商業組合が同年五月に設立された(組合長 宮田小右衛門)これは商業者の権利擁護であって、商工取引上の関係は両組合の協定に依って業界の進歩発展に寄与した。この組合の設立によって存在価値を失い永い歴史を持つ萬古陶磁器同業組合は消滅解散した。

 

 

 

 

 

七、木節粘土の問題

 昭和十年頃瀬戸の陶業者の一部において愛知県に陳情して瀬戸産原料の県外移出も禁止を図った。これはその原料に依存する陶産地としてら当然の処置であるが、、その対象は商売敵である萬古焼であった。前述したように、大正焼のの主原料木節粘土は殆ど瀬戸産に依存しておった。いはば敵国から糧を仰いで大きくなったのである。四日市としてこの話は真剣に考えるべき問題で三重県としても捨て置くわけにはいかない。工業組合と協議の上 県産伊賀の木節に転向すべく、産地採掘業者とも接衝し、又組合直営採掘の事を考える傍ら大正焼品質に適合の試験も重ね何時瀬戸木節の移出禁止を受けても、生産に支障のない準備を整えたいのであったが、その後瀬戸において問題の進展なくまた伊勢木節が不敵であることも理由にこの話は消えた。

 

 

 

 

 

八、軽質陶器

  昭和七年に東阿倉川の笹伊即ち笹岡伊三郎は軽質陶器と称する石灰質陶器を発明し皿類及び大型丼類を製造した。その製品は外見硬質陶器に類似し、軽量であるのでその名が生まれた。その頃硬質陶器は日陶連の統制品で生産の割当と共同販売を、実施中の者であった。軽質陶器は品質を異にするため、統制の埒外にあって自由の生産を続桁が今次戦争を境にこの製品は消滅した。

 

 

 

 

 

九、石炭の共同仕入

  昭和十二年頃となると、支那事変もはじまり、物資は愈々欠乏して来た就中石炭は最早個人での入手は困難となって、日陶連は商工省に陳述して陶磁器用石炭の割当を確保し、各所属組合に割当て、所属組合は叉その組合員に割り当てて分配した。

 

 

 

 

十、代用燃料                                

  対米戦争に入って通常の経路では石炭の入手が出来なくなったので、業者は代用燃料として松割木、柴、ピッチ、竹材、コールタール等凡そ燃焼物なら手当たり次第入手して燃料とした。業者は燃料の変化により苦心の上失敗を重ねたが次第に燃料技術を研究し最後には殆ど失敗することなく焼き上げるようになった。これは苦難が与えた大きな収穫であった。

 

 

 

三重県窯業試験場

 

 昭和元年に業者の要望に応えて三重県工業試験場の分場が東阿倉川に設置された。

 業者は科学的に又技術方面にも大きな改良が加えられ業界の一大進歩を期待したのであったが、時恰も大正焼の完成した時期に至って業者は皆苦心惨憺実地の経験を有しこれに自信を持ち試験場を利用するのも甚だ僅少であった。試験場に於いても、新興陶器である大正焼の前途を究め、是れを指導することは容易の業ではなかった。業者と共に研究する程度であった。然し現在大きく利用せられている色釉薬の製法とその普及は試験場の功績である。 

 

 

 

 

 

 

 

 

本日はここまでです。

まるで、朝の連ドラを見ているような感覚でした。私たちの生まれる少し前のことなのですが、萬古焼が産業化するまでの全く想像もつかない歴史を知ることができているのかな?と。