第九節 昭和初期の状況
一、硬質陶器とタイルと電磁器
硬質陶器は英国が元祖で我が国では名古屋の松村八次郎氏がはじめ、金沢の日本硬質陶器、小倉の東洋陶器、名古屋の白川陶器、岐阜県の「カクサ」製陶所等全国に数社あった。これは工場の規模設備技術の点で旧来の陶産地小中業者には至難の製品であった。大正の末頃東阿倉川の山本増治郎が是に着目し、大正焼製造の傍ら、その研究を続け昭和二年頃完成し工場の一部をこれに切り換え爾来益々研鑽の結果今日の大をなした。この頃二三業者もこれを研究したが何れも大きな犠牲を払って廃絶した。
硬質陶器タイルは大正八年四月川村組が、建築タイルは河原町の伊藤嘉太郎(泗水タイル)、又、モザイクタイルは東阿倉川の木村周太郎が製造をはじめたが、その何れも今次戦争を境にタイルの製造を廃業した。
大正十二、三年頃に電磁気の製造を試みたものがあったがこれは失敗した。
二、昭和初期の状況
昭和年代に至り大正焼も研究の時代を過ぎ安定した商品となって来た。旧来の萬古焼(登窯製品)は次第に大正焼に移り製品の種類も変化して来た、登窯の薬掛土瓶と急須煎茶器等は昭和十年頃に、又萬古焼として最も歴史の古い而も萬古焼独特製品である型製土瓶急須も遂に昭和十四、五年頃全く姿を消して萬古焼の系統は赤土の轆轤急須が唯一のものとなった。
登窯は次第に石炭窯に移ってきたが大正焼の焼成法である酸化焔では赤土急須を焼くことの出来ない悩みがあった。鳥居町の須藤善太郎が、苦心研究の上赤土物を石炭窯で焼くことに成功したので登窯はここで消滅する運命となった。
大正の末期から昭和の初めにかけて大正焼の窯元は輸出品の焼成には特に慎重を極め内地向品を火前物に輸出向品を中立物とし焼き上げの安定を図りつつ製品を吟味したのでその頃は粗悪品は少ない。
輸出品が盛んになってその荷造り材料であるボール箱木箱の専門業者が生まれ、製造業者各自の生産設備もほとんど機械化し製土も一応統一した原料を用い唐土(鉛)から亜鉛華(亜鉛)に代わって嵌入の欠陥を補い大正焼も昭和五、六年頃になると完全な製品となった。
一応こうして生産から販売まで態勢がととのって輸出は益々増大してきたがその頃から世界的の不況となって低賃金による日本商品が欧米各国の産業を脅し世界市場から日本商品締め出しの政策となって国内には莫大な滞荷(萬古焼には滞荷はない注文生産のため)となり、価格は下落し不景気となった。