秋晴れではありませんが、秋らしくさわやかな風を感じます。
四日市地区は、小学校はじめ、こども達の運動会がおこなわれているらしく
運動会特有の音楽や、アナウンスが秋風に運ばれて・・・・・・・・・・
街中がにぎやかです。
13日に、お茶淹れ講座も満席にて終了しました。
参加者の皆様には、楽しかったとのお声をいただき
主催者としては、嬉しい限りです。
このまま カフェのメニューにしたい というお声をいただき
グランマ感動いたしております。
メニューになったら 一番のお客様になるぞ
大急須フェアも、おかげで好評(≡^∇^≡)
私も きれいなお急須をいくつか購入しました。
ここ、ばんこの里会館の事務所に 一セット置いてばんこ焼急須、お茶碗で、
四日市産のお茶を淹れてお客様にウエルカム ティ-としておだししようかなヽ(゚◇゚ )ノ
さてさて、萬古歴史の学びは 第2段階に入ります。
どうしても、歴史は人ありき ですよね。
では 沼波 弄山翁からです。
以下は、朝日日本歴史人物事典の解説引用です。
生年 享保3 1718年
没年 安永6 1777年
江戸中期の古萬古焼の創始者。
伊勢国(三重県)桑名の豪商。
一説には「万古屋」という陶器問屋とも言う。
名は重長、通称 五左衛門。
幼児から風流を愛し、表千家6代宋左(覚々斎) 7代宋左(如心斎)に茶道を学び
寸方庵の庵号を持つ。
桑名の邸内に窯を設け楽焼風の軟陶を焼いていたが
元文年間(1736~41)許可を得て別宅のあった小向(三重県朝日町小向)に開窯した。
土は小向の名谷山から取り高火度の本格的な作陶を始めた。
宝暦年間(1751~64)江戸も別邸のあった向島小梅に
公儀の許可を得て築窯。
将軍家御成先御用並びに御数寄屋御用も仰せつかり
しばしば釜場への将軍の御成もあったという。
作品は後に復興された有節萬古などに対し江戸萬古、小梅萬古
などと呼ばれ、「萬古」あるいは「萬古不易」の印が押されている。
当時の文人趣味にかなう煎茶器などの茶陶器が多く、
内外茶陶の写し物と独特な中国風やオランダ風の更紗文や
鳥獣文が異彩を放つ赤絵や銅青磁などがある。
江戸萬古は安永6(1777)年、弄山没後、番頭の安達新兵衛が
差配したが、寛永12(1800)年ごろに廃絶した。
少し 詳しくなりました。
今回の記述で言葉の意味合いを確かにしたく念押しに調べてみることあり。次回をお楽しみに。
グランマ数馬