古萬古はうつくしい 13
赤絵瓢箪型香炉 江戸中期 (高さ 9.5cm)
萬古焼きの始祖とされている 沼波弄山が、江戸に移り小梅窯で作陶しはじめたこと、彼の妻のこと、妻の家とは、弄山の高祖父の代から縁があったことなど、わかったわけですが、弄山亡き後の小梅窯は、支配人格の新兵衛があとをつぐのですが、その後どうなっていくのか・・・・・
ひもといていきましょう。
新兵衛没後は、竹斎手記によれば、加賀の陶工某と、群競が作陶を続けたといい、小梅の窯跡は文政末年頃までは存していたとのことである。
前記「由緒書」中に「江戸の業処」と記されているのは、沼波家の江戸出店のことで、今川橋にあり、弄山時代になって主に萬古焼きの陶器問屋を営んだ。
伊勢小向の窯の小梅築窯後の消息を伝えるものとして、若干の資料がある。同所の小向神社に奉納されている二対の瓶子があるが、その一対は緑釉がかけられ、波に鴛鴦(おしどり)の窓絵で、片側に「奉献 家内安全氏子安全 平賀氏」と書かれ、高台内面に「安永十丑初夏 陶師瑞牙製」と書かれ、他の一対は銅青磁で楼閣山水の窓絵が施され、片側に「奉献氏子安全 若もの中」と書かれ、高台は何れも欠けていて、底面の「安永十丑初夏」の書銘が存するのみだが、書体は前記一対のものと同様で、もちろん、瑞牙の書いたものとみられる。次に東京古河家所蔵のものに「天明元辛丑中秋日 朝明郡星川★★瑞牙制」の書銘がある。また小向の後藤家所蔵の御神酒徳利には「天明二寅歳 朝明星川★★瑞牙制」の書銘がある。(朝明は旧郡名で現在は三重郡に編入されている。)なおこれは後藤家が当時瑞牙に依頼して自家用製作させたもので、胴部には同家の鶴丸の紋章が赤で画かれている。すなわちこれによって、当時瑞牙が小向の窯のある星川の辺りで製陶していたことは明らかであるが、彼と弄山の関係については、弄山の弟子とも、あるいは弄山の弟とも言われている。しかし弄山の血縁について調べても、桑名太一丸の山田彦左衛門妻と、白子の竹口如林妻の二人の妹しかいないので、やはり弄山の弟子ということになる。瑞牙は、のちに津で安東焼に携わったといわれる。
日本語はむずかしい!!がんばります!!
風邪まだ治らず…咳き込む ばんこグランマでした。