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古萬古はうつくしい 12


古萬古はうつくしい 12

 

赤絵千鳥文燭台(江戸中期) 高さ 21cm

 

 

昨日の続きです。

 

 

さらに前記「射和萬古申諸書」には引用の前文に続いて、

「江戸よりも御数寄屋の器造るへき仰蒙りり給ひければ伊勢は手遠なりとて江戸の業処ありて小梅に別荘の有しに窯を築て製し給ひしに、天明六年御本丸山俊明院殿(註、十代将軍家治)、西御丸わ文恭院殿(註、十一代将軍家斉)の御時、倶にならせ給ひてくさくさの品とも造るを台覧ありし事なともありしか、その子五良兵衛ぬしは此事も好まずして其事も止ぬれば、其法も其家には絶えけるを我か父の君(註、竹川政信)の若き程江戸に下り給ひしときは、(註、江戸店常詰めは寛政初年)いまた大叔母(註、弄山の妻、竹川政栄の女)も世にいまして、安達新兵衛か事とりゐしほとなれは云々」

 

とあり、弄山の江戸出府小梅築窯は、将軍家の御数寄屋道具御用命という外部事情のあって、宝暦年間に実現をみたのであるが、この小梅時代は古萬古として、作品的にもざいせいてきにも、もっとも恵まれた順調な時代であったつといえよう。古萬古の中でもとくに江戸萬古と言って珍重する。

 前記 安達新兵衛は小梅窯の支配人で、周平ともいい、江戸萬古に新兵衛箱書のものを、往々散見する。

 弄山は安永六年九月13日、向島小梅の別荘で没したが 子五郎兵衛は製陶に興味を持たないので、新兵衛がのあとをうけて業を続けた。

 

 

 弄山の法名は西誉方岸道一善士といい、その墓は東京深川の法禅寺(浄土宗)内の常照院(良信院に合併)の江戸竹川家の墓域に葬られたのであるが、先年尋ねた折には、震災後不明となっていた。しかし幸いに桑名光徳寺にも分骨埋葬されており、この方は現存している。

 

 彼の妻は、射和萬古を創めた竹川竹斎の曾祖父政栄の女(名は八百)で、寛政12年9月13日に没している。

 射和竹川家と沼波家とは、弄山以前から縁があり、竹川本家三大政長の女が弄山の高祖父沼波五郎左衛門の妻となっている。竹川家は代々江戸で両替店を営み元禄以降幕府の為替御用方を命ぜられ、ほかに酒と醤油店及び荒物店を持ち、本家が中心となり、新宅竹川と竹斎の生まれた東竹川がその両翼となって盛大に営業していた。

 

 

う~~ん、読めない漢字もでてくるし、意味を調べないといけない文言もある~~~なんとなくわかる、ではいけないよねと思いつつの写しであります。

 

 

まだ、ほんまもんではない 風邪ひき ばんこグランマです。

 

 

 

 


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