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古萬古はうつくしい 11


古萬古はうつくしい 11

 

江戸中期 藍絵獅子文水差し(高さ13.3センチ)

 

これは、まごうことなきライオン!!

 

なんとも猛々しいではありませんか?!

 

 

さてさて、グランマ数馬・・・1月17日から5年ぶりに風邪!!3日ほど臥せっておりました・・・・

皆様はいかがでしょうか?まだまだお寒い日々です。どうぞご自愛くださいませ。

 

 

ずいぶん間が空いてしまいました。申し訳ございません。

 

 

前回の続きとまいります。

 

「始め勢州に住し、徒らに陶器を制す。」

 

始め伊勢の田舎で素人の道楽で作陶していたが、多く茶陶で茶人たちの評判も中々よろしい。

 

「のち、居を東武に移し、やむを得ず、陶工を業とす。」

 

本窯となると、道楽半分に田舎の茶人相手では商売にならぬので、本腰を入れて陶器商売をやるために江戸に移った。

 ここの事情はこんなことではないかと思う。それに弄山も江戸の店もちで、世間の様子はよくわかっている。

 

 弄山が江戸に移ったのは、それは何時ごろだろうか。

 

「新編武蔵風土記」巻22の小梅の項に、

 「萬古焼きは小梅村の南にあり。宝暦のころ萬古館次郎とて陶器を製するもの、勢州桑名より来りて、呉州まがへ及び赤絵薬等の陶器を作りだせり。

 因て、世人萬古焼と称セリ。安永天明のころは最も著名なるを以て、浚明院(註、10代将軍家治)御放鷹の時、館次郎を召し、羅漢寺境内にて政策をご覧せらる。館次郎は常に桑名より土を運送せしめ、工人をも呼び下せし故、陶器美なれども、価貴なりし故、自然にうれずなりにければ、その後は下品の製のみ造りけれど、今は窯の形のみ存セリ」

 

 向島小梅には沼波家の別荘があり、その地内に窯が築かれたのであるが、弄山弟子の陶工萬古館次郎が宝暦ごろ桑名から移って来たというのだから、弄山自身の江戸出府や小梅築窯を宝暦ごろと見てよい。ちょうど弄山が三十代から四十代にかけての年代である。

 

 萬古館次郎は、小梅窯の陶工中の頭分らしいが、彼には自筆本の

 「楽焼本焼陶器薬秘集」があり、その奥書に

 「右此書は本所小梅村萬古焼きの文則先生より書き付けもらい候。尤文則先生の筆なり。此仁は萬古にて焼物の薬の合わせ方を被致候人とて、楽焼の法は甚鍛錬なる人故に此仁によりて伝授致置候」

 

とあり、別にまた「柿沼文則、館次郎という。」とある。

 

・・・・・・

 

なんだか、館次郎さん 登場です。

なかなかすすみませんが、やはり歴史は面白い・・・

早く 全快したい ばんこグランマでした。


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