三寒四温・・・ではなく、二寒五温 くらいになってまいりましたね。
私は もともと薄着です。
ので、三月に入ってから ほとんどコートを着ていません。
早いものですね。桜情報が聞かれるのですから・・・
有節萬古 その2です。
森家の宿坊である桑名の輪崇寺の住職で、復古大和絵の浮田一恵斉の門人帆山唯念(花乃舎)画像から、有節兄弟は絵を習った。
大和絵の粉本による草花の上絵は、有節萬古を華やかなものとした。
その顔料は古萬古の硬彩とは異なり、粉彩盛り絵付によるものであった。特にピンク色の腥臙脂釉は、日本で有節が一番初めに工夫したものと云われている。
成形は巧みなロクロ挽きのものが主であったが、急須や、徳利は有節の特異な発明と謂われる木型を使用して作られた。
木型は提灯の製作に使う木枠に良く似ていて、多くの木片にて構成されている。
有節は、 木型の表面に龍の図を繊刻し、成形後器の内面に龍の文様が現れる様にした。この方法を知らずに初めて見る人には摩訶不思議であったと思われる。
我が国での木型抜きによる成形は、有節が初めである。
またこの外に紙型による吹き絵、切継細工、木理、モミコミなどの方法や、菊花盛り上げなど発明考案は多く、弟千秋による急須のふたのお茶を注ぐときに落ちぬための工夫、把手の先の遊環、蓋のぐるぐる廻るつまみは世の人の驚きであり、大いに賞賛を浴びた。
有節萬古の鮮やかな色彩による大和絵風絵模様と、繊細な陶技からうけるものは、古萬古の重厚さに比し、卑俗浅薄なりとする人があるけれども、それが時代の要求であり、工芸のもつ宿命であったと云える。
然しながら、初代有節、千秋の作品には、新しい文物を吸収しようとする意欲と、生来の工芸家としての天分が滲み出ている。
彼らは弄山の創始命名した萬古焼を時代に即して発展させたのである。
有節の意気は「日本有節」「萬古有節」の印に表れ、千秋の誇りは「千秋不易」の印に窺うことが出来る。
有節は文久二年(1862年)に苗字袴御免、同御用達を、元治元年(1864年)帯刀御免、慶応三年(1867年)には国産陶器職取締役を命ぜられ、其のあと明治年間各博覧会等に出品して褒賞を受け、皇室お買い上げの栄も幾度か蒙ったが、晩年になって中風症を病み、明治十五年(1882年)七十五歳で歿した。
弟千秋は、兄有節に先立ち元治元年(1861年)に世を去った。四十九歳の壮年であった。
なんとか初代有節までまいりました。
現在 パラミタミュージアムにて 萬古展を開催中。
なんとか観に行きたいと思うグランマです。