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今だからこそ27(八)四日市萬古焼      4四日市港開港と川村又助(川村商法と堀商法)


 

「右京大坂道、左いせ参宮道」の大きな道しるべが立って居る追分が町のはづれにある四日市は、徳川幕府の参勤交代の制を定めて以来、東海道五十三次の宿場町として通過宿泊の旅人で賑わって来た。また地名が表している様に、物産の集荷地として市場が立ち、商業も盛んであった。

 治政は、徳川時代には一時、大和郡山城主柳沢甲斐守の所領となった事はあるが(享保九年〜享和元年)ほとんど徳川将軍の直轄領であった。

 幕末期は、近江信楽の代官多羅尾氏が支配して居た。

 慶応三年十月、徳川将軍が大政を奉還してより、明治三十年七月、市制を施行されるまでの間、目まぐるしい程行政が変遷した。次に、それを記して明治時代における四日市の発展の軌跡を追ってみる事とする。

 

慶応  三年  十月  大政奉還により亀山城主石川家菰野城主土方家の支配となる。

明治  元年  十一月 近江信楽の代官の関係から、大津県の支配となり、大津県出張四日市役場が設置された。

明治  二年  十月  度会県に転属

明治  四年  十一月 廃藩置県の実施に伴い、当時、十三県に分割されて居たものが、度会、安濃津の二県となったので安濃津に編入。

明治  五年   三月 三重県と改称、津にあった県庁を交通の便の良い四日市に設置す。

明治  五年   四月 四日市、浜田、浜一色の三村を以って三重郡第一区組となり戸長役場を置く。

明治  六年  十二月 県庁、再び津に移転、四日市に支庁が置かれた。

明治  七年   七月 末永、東阿倉川、西阿倉川の三村を加えて第一大区一之小区と改む。

明治  十二年  二月 大小区役所を廃し、三重郡朝明郡役場を置く。

明治  十七年  十月 独立戸長役場を置き、浜田及び浜一色は他の村落と共に連合戸長役場を置く。

明治 二十二年  五月 市町村制の施行により前記三村と赤堀、末永の一部を合して四日市町役場を置く。

明治  三十年  七月 市制施行

 

 

この様に活発な胎動をして発展をつづけた四日市の姿はその後四日市萬古焼の前進の姿に当嵌める事ができるのである。三重県の県庁が明治五年三月四日市に設置された頃は四日市は船便による旅客、貨物で大にぎわいであった。

 もともと、四日市は古くから伊勢湾有数の良港があり、和船の出入りがさかんであった。

 明治三年十月、四日市の先覚者である黒川彦右衛門、佐伯又右衛門、福生祐作の三氏の出資により、東京霊岸島の回漕会社と特約、太政官通商司の認可を得て、四日市に支店を設置して、初航汽船廻潤丸、清渚丸、貫効丸の3隻にて四日市〜東京間の通商運輸を開始した。これらの船は300〜400t程の大きさであった。

 この汽船航路の開通は当地の交通に一大変革を来し、商工業発展に大きな力を与えたのである。

 船舶による旅客、貨物の増加は激甚となり、四日市の名前はまたたく間に全国に知られる様になった。

 

   

 

 


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