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今だからこそ26(八)四日市萬古焼3      堀友直の開窯と山忠・堀に続く人々


 

 

 

 山中忠左衛門に次いで、四日市に萬古焼の煙を上げた人がいる。(挿絵13)

堀 友直肖像

 

 友直は、文政十年(1827年9、桑名郡長島藩士田中来輔の五男として生まれた。19歳の時、同じ長島藩士堀家の養子となり、堀大六良藤原友直と名乗った。武士出身の知直は山中忠左衛門とは対照的に襟度を持った紳士として、生涯武士の威厳を失わなかった。陶技の開発に積極的であった事は勿論であるが、販売についても慧眼の持ち主であった。

  文久二年(1862年)に、長島の自宅に窯を築いて、楽焼を始めた。当時、桑名には有節亜流の桑名萬古が勃興しつつあった。これに目を付けた友直は下級武士の子弟を集めて萬古焼の法を研究して居たと言う。

  明治維新ともなると、今まで街道の旅人の土産物に頼って居た桑名萬古が衰微し、旅人の足が港のある四日市に移りつつあった。この経済推移を洞察した知直は、意を決して四日市に移り、萬古窯業を始めることとした。

 先ず、阿倉川の藤井元七の窯跡を買い受けたと伝えられている。一説には、試験のため一時借受けたとも言う。

 友直は、色々と考えた後、街道に近い三ツ谷(四日市市三ツ谷町=海蔵川の北)に陶工を集めて築炉開窯したのは、明治四年(1871年)の事であった。

 

 

 知直の窯の規模は忠左衛門に匹敵するものであった。知直は忠左衛門とは異なり、土から製品まで一貫して自家で行う大陶房を作った。言わば工場の建設であった。陶技については山忠窯と大同小異である。 

 長島で鍛え上げた友直は、製出する萬古焼に自信を持っていた。明治十年の内国勧業博覧会、明治十一年のパリ万国大博覧会にも作品を出品して賞を受けている。

 友直は、陶工の養成に力を入れはしたが、むしろ、販路と需要に応じた製品の産出に才能を発揮したのである。のちに要職に月四日市萬古焼業界の地位昴上に尽力した事は特筆すべき事である。

 山中・堀の開窯に刺激されて四日市の街道付近に窯を開く者が相次いだ。明治十五年ごろまでに開窯した人々は次の様である。

  (鳥居町)  伊藤嘉助、中島直次郎、花井新兵衛

  (川原町)  中山孫七、小林政吉、後藤伝七

  (太鼓町)  蔀 荘平

  (水車町)  森 庄吉

  (三ツ谷町) 水野勝造

  (南川原町) 田中治助

 この他、伊藤庄八、岩名芳兵衛らの名も記録されている。

 尚、森庄吉は山中忠左衛門のパートナーであった。

 明治十年に開かれた第一回の内国勧業博覧会に三重県の陶業家が作品を出品して其研を競った。

 三重県報告第6号(明治11年6月24日刊行)に記載されている目録の「焼窯術上の製造物」の項に萬古焼関係者は朝明郡小向村・森與五左衛門、三重郡末永村・山中忠左衛門、三重郡浜一色村・谷スミ、同・太田仁左衛門、三重郡四日市北町・茂福平蔵、三重郡阿倉川村・堀 友直、三重郡末永村・中山孫七、安濃郡津船頭町・倉田久八の十名の名が見える。内8名は四日市萬古焼の人達である。当時の四日市萬古焼の勢いを窺うことが出来る。山中、堀は鳳紋賞牌を、森、蔀、中山は花紋賞牌を、圦山、谷、大田、茂福、倉田は褒状の栄に浴している。

 明治十年頃までの四日市萬古焼は優作のことのみに一生懸命で、必ずしも上手な販売をして居たとは言えない。

 四日市萬古焼と前後して開窯した射和萬古、再興安東阿漕や、沢山な桑名萬古、それにリーダー有節萬古も時勢の洞察に欠け、旧来の販売方法を改善することなく、目論見の誤算から、閉業、ひっそくする処が多かった。維新変革期の経済恐慌の打撃は想像を超えるものがあった。四日市萬古焼の業者も其の例外ではなかった。

 幸いな事に、四日市には良港がひかえていた。四日市開港による旅客、貨物の四日市への立ち寄りは意外な程の利益を提供した。また、天才的セールスマン川村又助が登場するに及んで息を吹き返す事になるのである。

 


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