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今だからこそ35 (八)四日市萬古焼 7明治期の四日市萬古焼の製陶法


 

明治時代と一口に言うも、四十五年に及ぶ長い年月である。その間、四日市萬古焼は常に研究、修練を重ね、前進、また全進出会った。従ってその製陶法を記述する事は大変困難な事である。多少時代が前後し、遺漏重複のある事は止むを得ない。主たるものを摘出して総括としたいと思う。

 先ず、四日市萬古焼はどんな陶法によってスタートしたかと言う事である。

 それは大きく見て四つの陶法の集合によって始まった。その陶法の中核をなすものは有節萬古の法である。

 

(一)四日市萬古焼の創始者山中忠左衛門は前述した如く熱烈な有節ファンであり、苦労して直接有節萬古の陶法を探り取った。又、堀友直は桑名萬古を介して間接的に有節萬古を自家のものとしていた。この有節陶法は、

1、有節使用の構造になる窯で焼成する法。

2、有節考案による木型によって成形をする法

3、有節が発明した腥臙脂釉等による粉彩釉上絵法これが主たるもので土型による成形法などもある。

(二)次に上島庄助が信楽よりもたらし、四日市萬古焼に吸収された大物ロクロの技である。

(三)小型の急須等のロクロの法。有節の処で研究したと言う美濃赤坂の清水平七、山中忠左衛門の処に修業に来ていた弟清水勇助より習った赤坂温故のロクロ成形の法。

(四)山中忠左衛門の勧誘指導によって自然発生的に生まれた四日市萬古焼の明治時代の製陶法を、製造工程の順序にしたがって、その移り変わりを詳述する事とする。

 

『一』杯土工程  前章で説明した通りであった。

『素地成形工程』

   (1)ロクロ成形小形の急須等のロクロの法は前記赤坂温故の法によった。清水兄弟がそれぞれ伊勢路を訪れた時は、その技術に魅了され、進んで学ぶものもあり、後には赤坂へ出かけた者も多かった。「おんこ」「おんこ挽き」(ロクロ、ロクロ師)の言い方が未だに四日市にある事は、その間の事情を物語っている。(挿絵23)

 

 

   これに明治二十年ごろ常滑から石川寅吉らが常滑朱泥急須のロクロ製法を持ち込んだ。

 大型の花瓶、菓子器、蓋物などのロクロ成形は上島庄助〜益田佐蔵による信楽のロクロ法であったが、これに明治十四、五年ごろ、土岐津の水野勝蔵らが平物の技術と煎茶碗、湯呑のロクロ法を伝えた。

 これに加うるに、明治27、8年ごろ、宮田寅吉らによって、伊賀の大型土瓶のロクロ法が入ってきて、あらゆる物がロクロで成型し得る事となった。

 

(2) 押型成形

   イ、木型成形

     これは森有節が発明した法で、数ある有節の考案の中でも最大の傑作であった。この法が四日市萬古焼に伝えられたられたのである。この作業の詳細は別に掲載す。(169頁)

      ロ、土形成形 

        土形によって急須を作る場合、先づ胴を作る。胴は上形と下型にわかれ成形は別々にする。杯土を土形に入れ適当な厚みに押さえ伸ばすと杯土が型からはみ出る。はみ出た杯土をヘラを使って切り除く。上下の型を合わせ指先で押さえながら継目を密着させる。取っ手、注ぎ口は土型が左右に分かれている。蓋は単一の型である。つまみは舞いつまみとその他があるが、総て土型で成形する。成形の終わった物を適時に脱型して仕上げをする。このほうは量産品、複雑な器形、文様のあるものに活用された。(挿絵24)

 


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