今だからこそ39 は、7月でした。その時からのお久ぶりになります。
もともと 「四日市萬古焼史」の書き写しは、この書籍が在庫がなくなり、再販の予定もなくこのまま多くの人の目に触れることのない書籍になってしまう・・・・だったら、写本したらいいじゃないのってことで始めたものです。
199ページの書籍の現在、112ページ。ようやく半分を終えたところでしょうか。
現在は、グランマブログとしての在りようですが、全て 写し終えましたら、ホームページにデジタル版としてセットする予定です。
「黒木舎」 富山士郎
手捻りの名手であった。作品その他は不明。
「八三」 伊藤彌三郎
彌三郎は木型作りの名人として有名であった。
桑名から四日市に越してきて、新浜町、慈善橋の近くに住んでいた。(挿絵33)
「庄造」 伊藤庄造
彌三郎とならぶ木型作りの名手である。彼の丁寧、細密な木型作りの技は、目を見張るものがある。彼は比丘尼町に住んでいた。(写真34)(挿絵34)
四日市萬古(明治)
木型作り山水文急須(高さ 7、5センチ)
四日市萬古 (明治)
木型作り草花金彩急須
「孫七」 中山孫七
中山孫七は川原町の人である。明治初年、忠左衛門に師事して末永に築窯、のち、川原町に移築した。明治10年の第一回内国
勧業博覧会に花瓶、コーヒー具、湯沸かしを出品して花紋賞牌を受けた。また巴里の萬国博でも受賞した。元来、手器用な人であった。晩年は型萬古の製作を楽しんでいた。彼は熱心な浄土真宗の門徒で在り、作品に「ガイコツ」の絵柄と信心の歌を書いたものが遺っている。(写真33)
大正3年、86歳の長寿で世を去った。
Comments are closed, but trackbacks and pingbacks are open.