激戦が続いてロシヤ軍が敗走した跡に、食器の破片が散乱していた。それが硬質陶器であったので、寅次郎は、自分の研究目標は間違っていないことを確認し、戦地で確信を深め一層熱意を燃やしたのであった。戦塵おさまりて、明治38年10月凱旋、広漠たる満州の地より帰還して、魂の奥深く沁みるものは日本の碧い山の美しさであった。その感動を陶号として自ら「碧山」と命名したのである。
心を新たにして再び研究に没頭する日月が、再び始まったのである。
明治40年頃、当時日本における硬質陶器の権威者北村弥一郎工学博士が、萬古焼視察のため来四した事がある。寅次郎の新陶器研究を知って余談され、その研究構成と過程をきかれた。そして「あなたの研究は楽理的に合わないものであり、技術的に大きく矛盾があるから、成功は不可能と思う。無駄な研究に尊い物心の過大な犠牲と、還らざる日月を費やすことは、見るに堪えない。断念すべきである」と好意的な忠言をされたが ”盲人蛇に恐じず” で、半磁器式硬質陶器及び石炭窯の研究を断念することなく、意欲は一層燃え立つのであった。
研究の窮乏生活も実質的に五ヶ年余の歳月が過ぎて明治42年となった。豊かでない私財を使い果たし、妻の生家を泣かせ、高利の金も借り、 ”焼いては池に捨てる” 繰り返しは絶えることなく続いた。寅次郎は老いたる母に知られないように、夜中にこっそりと窯出しをして、失敗の製品を裏の池に捨てるのが始終であった。”貧を心で克服する” 日々の生活もどん底である。硬質陶器の素地材料は地元に全然なくて、隣県の愛知県、岐阜県、遠くは岡山県、佐賀県などから求めるのであるから、原料高になった。少しでも研究費を助けるために、窯の一部に登窯の薬掛けの土瓶に硬質陶器の釉薬を施して焼いた。それが偶然にも黄濁色の陶器に焼き上がったのである。これが「大正焼」の生まれる尊い陣痛であったことは後日解ったのである。
寅次郎の研究も疲れを生じ、日増しに明暗起伏の生活は激しくなって来たが、明治43年の春、遂に宿願を達し ”半磁器式特殊硬質陶器” は
完成した。同年10月、大阪に開催された日本工業共進会に「コーヒーセット」を出品し、「二等賞銀杯」を受賞した。日本陶磁器史に新しき一頁を加えたのであった。
貴族的な冷たさのある硬質陶器とは別に、庶民的な温かさを持つ黄色陶器を併せて完成することに熱意を転じた。
前年、偶然発見した黄濁色陶器の改良研究である。
これは素地が重点となるから、登窯に用いた「白地土」「長石」を加えて試験を重ねること一年半、明治44年秋、黄色陶器は完成した。
翌45年「明治」は改元されて「大正」の世となった。これを記念して「大正焼」と命名したのである。白色の純度を追求する硬質陶器に比べて、原料の入手は容易であり、製造工程は平易である。
ともかく”美しい製品が安く出来る” という点に、世人の期待は大きく動き出したのである。
四日市の素封家山中伝四郎、黒川新作両氏が中心となって、四日市商工会議所グループから”独占事業として会社組織による企業”の話があった。寅次郎は、「私は萬古焼の将来を深く考慮して、身分不相応な夢を追ったのであって、私欲から出発したものではありませんから」とこの厚意的な申し出を即座に断ったのであった。1日は長く10年の歳月は短かったが、世人から狂人同様に冷視された寅次郎にも明るい人生が輝き始めたのである。
寅次郎が新陶器研究を発心してから大正焼が生まれるまでの長き年月、つねに水谷家に出入りして、その研究過程を注目していた同業に、伊藤嘉太郎、宮田冨吉、中島伊三郎、黒川源太郎、山田兼吉、内山小太郎、川村又助、宮田小右衛門、竹内政吉らであるが、硬質陶器の成功、大正焼の誕生を共に歓んだ人々であった。
病弱であった実兄中島伊三郎に、先づこの大正焼の技術を伝授し、大正萬古の登録商標を受けさせ、中島の製品には、これを刻印することにして、合資会社「川村組」(代表者・川村又助)と一手販売の特約を結んだのである。
中島が愈々大正焼を発売した頃(大正2年)、寅次郎は大正焼に関心を深くもっていた伊藤嘉太郎、宮田富吉にも大正焼を勧めて、素地、釉薬の伝授、築窯、焼成までの指導をした。
そして、一般の業者にも、大正焼を希望する人には、技術を公開し、指導したのである。
水谷寅次郎の苦心談を読んで感じる事は、寅次郎は四日市萬古焼の生みの親である山中忠左衛門と実によく似ている事である。ライフワークを一旦心に定めると、決して後へは退かなかった。その鉄の意志と成功を確信しての奮励努力は超人と言う可機である。共に単なる私利私欲から発心したのではなかった。
かたや、維新変革期の困窮者への食さんであり、一方は明治末の良土の枯渇による沈滞に陥入っていた四日市萬古焼の暗い未来に対する光明として、私財を擲った事である。
しかもこの両者は、その目的を達成するや、その苦心研究の成果を私のものにせず、進んで公開した事実である。共に親分肌の人であり、彼らの膝下からいろいろな技術者が巣立ったことも共通している、だが山中忠左衛門は富有な地主であり、水谷寅次郎は、一介の小窯業家に過ぎなかった。忠左衛門が徹底した慈善家とすれば、寅次郎は驚異的陶技研究家であった。
寅次郎は大正焼の完成に引き続き、石膏鋳込み法に成功しており、酸化焔焼成の石炭窯を改良、還元焔で本式の磁器を作った。(大正5年)
大正焼の黄色を白色に転じた泗水焼にアドバイスをし、農商務省の推薦で1年間沖縄壺屋に至り、琉球焼の改良指導を行なった。(大正7年)四日市に新しく開窯する石炭窯の指導に力を注ぎ、東洋紡の伊藤伝七の要請により生駒窯を築き作陶。(大正12年)
「含鉛釉」を「亜鉛釉」に構成変更して生ずる利点を追求成功したりした。(昭和6年)
昭和9年12月9日、寅次郎は波乱に富んだ生涯を閉じるまで倦む事なく、新しい陶法を続けたのである。時に60歳であった。
当時、色の黄色い大正焼は、釉下に色絵して本焼成ができ、見た目に美しく、しかも原価が安かったので、人気がある反面、嵌入、吹き、が出来る事と、簡易に生産出来るため、作業が雑になり、四日市萬古焼本来のものを失うものとして非難する者も多かった。
其本家本もとである寅次郎のところから、大正、昭和を代表する優秀作人が巣立っていったことは皮肉な事である。即ち、加賀瑞山、加賀月華、大塚香悦、清水楽山、佐藤延寿らであり、ろくろ師の伊藤豊蔵、窯焚きの水谷力松土屋の岡本豊太郎、釉薬屋の伊藤駒次郎らも碧山門であったと言う。
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