業者の多くは、疎開したり、また広い焼け野原の中で、僅かに雨露を凌ぐバラック生活の状態をみると、萬古焼もこの災害で見透しはつかなかった。
しかし乍ら、全国的な戦争の被害で、物資は極度に枯渇し、国民はその日の生活にも事欠くありさまで生活必需品である萬古焼への、いちじるしい需要となってあらわれたため、四日市陶磁器工業でも罹災者は住宅よりもまず生産設備を整え、いちはやく本格的生産をはじめて復興にとりかかった。
しかし、人心はまだ安定せず、前途の見込みもたたず殊に物資の不足で復興は容易でなかったが、それまで敗戦による放心状態であった業者も、最早晏如たる生活は許されず、切歯扼腕広い焼け野原の一角から、徐々に窯焼きの煙が立ち始め、本格的な復興が始まった。
そこへ昭和23年、貿易の再開がこれに拍車をかけて急速度に復興した。
萬古焼産地だけが罹災して大変貧乏くじをひいたわけであるが、業者の熱烈な復興心と協力によって、戦後34年経った今日、国内は勿論世界市場に覇権を持つ産地として、驚くべき発展をしようとは、誰が想像できたであろうか。
ちなみに、戦争勃発時より現在に至る四日市陶磁器工業界生産額の推移を別表でみよう。
生産技術面では、昭和23年に萬古窯業が、そして昭和26年に山庄製陶所が、重油を燃料とする「トンネル窯」を築いて、その優秀性を示して以来、笹井製陶所、森欽製陶所、宮尾商店、カク本窯業、フジ硬質陶器フジ硬質陶器、ヤマホン製陶所等次々とトンネル窯を設備した。
トンネル窯は戦前には、日本陶器や、日本硝子などの、大工場だけが持っていた設備であり、その築造には、莫大な費用と敷地を必要とするため、中々普及しなかった。しかし品質を均一に保ち、かつ生産を高めて生産費を節約できる長所を持っていたため、戦後の貿易再開による輸出市場の伸張に伴って、愛知、岐阜の陶磁器工業地帯に設備されるようになり、つづいて四日市陶磁器工業にもそれが及んだのである。
なお、最近の四日市陶磁器工業における製造工程は次表のごとくである。
四日市陶磁器工業の生産工程図
1 原土を造る
2 土練機で練る
3 動力で成型する(成型法)
4 流し込み成型(成型法)
5 圧サク成型(成型法)
6 手ロクロ成型(成型法)
7 出来た生器地を仕上げる
8 素焼窯へ入れる
9 絵付けをする
10 釉薬をかける
11 窯詰めして焼成する(焼成炉その1)
12 トンネル窯(焼成炉その2)
13 電気炉(焼成炉その3)
戦後の復興、グランマは戦後生まれです。
しかし、戦後と一口で言えない長い時間が経っていますね。
1945年8月15日。これが終戦の日です。
と言うことは、77年前のことになります。
この「四日市萬古焼史」は昭和54年、1979年発行ですから
弄山生誕享保3年(1718年)から287年目
この書物が戦後34年経て作られたのですが、
本日の記載分のあとはほんのわずかな記述で終わっています。
記載を続けてきた私には、ちょっと腑に落ちない感があるのですが、、、、
あとひと頑張り!! ます。