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 古きをたどって  3


第三節  製品の変遷

 

1 製品の変遷

  

 陶祖弄山の作品(古萬古)や有節萬古は施釉した器地に上絵付した物が多いが、桑名萬古から四日市萬古になると無釉物が増加して生地の細工が鑑賞の主目的となった。

 それは世上一般の陶器に対する概念が轆轤で作った丸い形のものとなって居た処へ萬古焼が生まれて木型や手捻り細工で自由自在の形状を紙のように薄く而も精巧を極めた細工や彫刻を施す等当時としては陶器の一大革命であってこれが煎茶の流行に合致して世人の好評を博したのである。

 其の頃全国の各地に何々萬古と萬古の名称を冠した陶器の窯元が現れて模造品が沢山出たことは如何に萬古焼が世の歓迎を受けたかを物語るものである。

 最も珍重せられたのは矢張り型萬古で手捻りはこれに次轆轤物は比較的少ないが温故(清水平七)の優秀な技術をついで轆轤製の急須はこの頃すでに完成していた。

 品種も急須を第一とし土瓶茶器(煎茶三ツ揃え)食器・酒器・花器の類であるが生産の数がわずかで一部好寄者の間で賞翫せられていた位である。

 これが明治十五、六年頃ともなると販路は段々と拡張し増産が要求せられてくると新規の窯元も出来て生素地師も多くの徒弟を置いて技術の養成と増産を図ったが勢い粗悪品も生まれて、価格は下落すると今度は量産で経済面を補う結果となり、斯繰り返しているうちに生産が過剰し不景気になると、業者は新規の考案品や大衆向けの安物本位の品を量産することに移って来た。其の結果今までの指頭の細工から轆轤製品と変わって来た。丁度その頃美濃の土岐津から煎茶の技術者が入って轆轤製の急須と煎茶碗を組み物にした安価な煎茶三ツ揃が完成して非常な売れ行きになった。

 又型萬古もこれまでは小型の土瓶や急須が主であったが技術が熟練して、五号から一升入り のものが、掛け物として(匣鉢に入れず天場でハダカ焼)として安価にできるようになった。そしてよく売れた。その為に昔の高級品は次第に蔭を消して一部特定者の生産となった。

 萬古焼の輸出品も内地向けと同じ様な年代から創っている。最初の頃は前に述べた名工と称する様な技術者が畢生の力を絞って原型を作り土型木型手捻り轆轤等すべての技術を応用した立派な芸術品であったが、量産が出来ない。

 其の頃の業者は各種の見本を携えて徒歩や船便で横浜や神戸に赴き、その見本の中から外国商館の撰定を受け、数量や期限を定めて注文を受けた物である。従ってこの注文に応ずるには資力と設備技術が必要であったので、これは一部の業者に限られて海外で好評を博しながら発展がおくれたのである。

 輸出向の品種は現在のものと余り変わりはないが白土の無細のものに上絵付けしたものが多い。色々な考案品や彼の地に向く意匠に精巧な細工を施した芸術的製品であっていまの進んだ科学や技術をもってしても遠く及ばない程の品物もある。

 明治の末期に於ける主要製品は左の様なものである。(ここでは左ではなく下記の様な・・)

 

 一、木型製  無釉の赤土と白土の急須と土瓶  

 二、ロクロ製  

 三、ロクロ製  釉掛の土瓶と急須   

 四、ロクロ製  煎茶器(急須一、煎茶碗五) 

 五、土型製   掛花・釣花  

 六、ロクロ製  湯呑類・花瓶・菓子鉢 其の他  

 

 これが大正焼発明以前の萬古焼の製品変化の姿である。

 

 

 

 

 ふ〜〜と、一息。この書物は、グランマにとっては、結構な手強い相手です。まず、文体、及び、構成が論文で在り、登場する言葉が現在の漢字ではなく、拾ってくるのに時間がかかる・・・だけでは在りません。とほほなのですが、読みこなす事も出来ない!!

 学生の頃、ほぼ半世紀前になりますが、漢和辞典を横においていたことを思い出しながら、携帯で、文字ナビをフル活用です。手書きで、その文字を書き入れ、読み方を知り、意味を知る。そして、改めて文章として読み返す・・・で、意味合いが理解できる・・・の繰り返しです。遅々として進みませんが、これも学び!!これからは、うん?これは?何?と思って、調べた事も含めてここに記しておいたほうが良いのかなあああ、と思った一日でした。それにしても、文章が長い、息継ぎなく、。まで一気に進む文章には読んでいて肩が凝ってくる感じがします。論文だから??

 

 ここまでで、第三節の一、製品の変遷が終わったところです。