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歴史を学ぶ グランマ数馬メモ19


四日市港

                        四日市大空襲の写真です

 

 

 

こんにちは

 

きょうは、四日市地区は、蒸し暑く・・・・・

 

 

いま、雷が!!

 

なんだかさっぱりといたしません。

 

私は、朝晩、一緒に暮し、一緒に出勤している ワンコ2頭を遊ばせるために

 

庭にでて しばらく過ごしすのが、1999年からの生活なんですが、

 

この時期、当たり前ですが、蚊に悩まされています。

 

首にはタオルを巻き、腕は 日よけカバーをし、もちろん ズボンをはき、靴下をはき、

 

長靴姿なのですが、それでも カバーの上から刺されたり、

 

靴下の上から刺されたりしています。

 

デング熱の報道がすさまじいので、刺されたあとの 自分の雰囲気がいままでとは違う・・・

 

 

日本の世の中、いったいどうなっているんでしょう・・・・・・

 

 

さてさて おおまかな萬古焼の歴史をたどってまいりましたが、いよいよ最終章に

 

 

近くなってまいりました。

 

 

 

軽質陶器の完成

 

 

大正焼の創始者 水谷寅次郎は、英国で考案された硬質陶器を

四日市に実現させるのが目的だったが、工場の規模、設備、技術の点で、

中小企業者には無理な企てであった。

 

 

その途中に生まれた大正焼の製造に関わっていた東阿倉川の

山本増次郎は、本格的硬質陶器に執着し、大正末頃から研究を続け、

昭和2年に完成し、その後も改良研鑚を重ねて大成させた。

 

 

 

 

戦時下の萬古焼

 

 

生産額の60%を占めていた対米輸出が途絶え、その他の輸出、

内地商品の売れ行きが減少した。

 

 

業界は途方にくれた・

 

 

そこで戦時下に必要な製品に転換することになり、

耐火煉瓦の製造が始まった。

 

 

これは海軍工廠に納入された。

 

 

金属の代用品、酸化鉄を焼成して鉄に還元する海綿鉄の試作、

航空機用碍子、暗渠排水の土管、も製造された。

 

 

人手不足に、芸妓が挺身隊との陶器造りに献身した逸話も残っている。

 

 

 

ちょうど、朝の連ドラでも この時期のことが描かれていますね。

 

 

戦争を知らない私ですが、きな臭い感じ・・漂ってきますね。

 

 


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