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萬古焼史料 続


前回の続きで目次からです。

 

目次

 

一、 古万古(陶祖 沼波弄山)              1

二、 射和万古                      2   

三、 森 有節・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2  

四、 桑名万古・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2  

五、 四日市万古(山中忠左衛門・堀 友直)・・・・・・・・4  

六、 伊賀焼系統(上嶋庄助・田端教正)・・・・・・・・・・4  

七、 川村又助・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6   

  ○第一創生期(自明治初年〜至明治三十年)・・・・・・・7  

  ○第二転換期(自明治三十年〜至明治四十五年・・・・・11

  ○第三発展期(大正時代)・・・・・・・・・・・・・・14 

  ○第四統制期(自昭和元年〜至大戦)・・・・・・・・・25  

  ○第五復興期(自終戦〜至現在 昭和二十八年)・・・・36  

  

 

           < 附 >   

  1、 万古焼とその原料・・・・・・・・・・・・・・・40 

  2、 森 有節伝・・・・・・・・・・・・・・・・・・42  

  3、 産業形態の変遷・・・・・・・・・・・・・・・・45  

  4、 堀 友直・・・・・・・・・・・・・・・・・・・46 

  5、 川村又助・・・・・・・・・・・・・・・・・・・48 

  6、 阿倉川と万古焼・・・・・・・・・・・・・・・・52  

  7、 万古焼発展の理由・・・・・・・・・・・・・・・54  

  8、 万古屋の商取引・・・・・・・・・・・・・・・・56  

  9、 万古屋の気質と金儲け・・・・・・・・・・・・・58  

 10、 万古屋の徒弟制度・・・・・・・・・・・・・・・60  

 11、 万古屋の技術保存・・・・・・・・・・・・・・・60 

 12、 四日市における流込みと機械轆轤の始まり・・・・62  

 13、 山中忠左衛門と益田佐蔵・・・・・・・・・・・・62  

 14、 円相舎小川半助・・・・・・・・・・・・・・・・64  

 15、 益田佐蔵の技倆・・・・・・・・・・・・・・・・64  

 16、 名工無眼楽・・・・・・・・・・・・・・・・・・65  

 17、 内田松山の来歴・・・・・・・・・・・・・・・・65  

 18、 安東焼・阿漕焼・・・・・・・・・・・・・・・・67  

 19、 技術奨励の品評会・・・・・・・・・・・・・・・68  

 20、 万古焼の急須・・・・・・・・・・・・・・・・・69

 

 

          萬 古 焼 史

一、古万古

 万古焼は元文年間(八代将軍吉宗時代)桑名の豪商沼浪五郎左衛門が、自宅に楽焼窯を築  き、自ら作り、自ら焼いて楽しんでいたが、其の後官許を得て三重郡小向村に本窯を築き、京風の陶風に改良を加え、明陶の赤絵更に舶来の和蘭交趾風を模し、独創的陶器を作り「万古不易」の印を捺して、自らは弄山又は方寸斉と号し、万古を名としていた。

 宝暦年間将軍家の御数奇屋道具製作の御用を承り、江戸向島小梅に窯を築き、桑名から原料を運び、多くの陶工を集め自身も江戸に移り製作に当った。是れ即ち江戸万古である。

 斯くして弄山は安永六年に没するまで、焼き続けたのである。万古の名器の多くはこの小梅で作られている。弄山には後継者なく、一代にして廃絶した。

 

二、射和万古

  弄山没後、飯南郡射和村の竹川弁斉が其の法を継ぎ開窯下が、暫くにして廃絶している。

 

三、森 各自が名称有節

  天保二年 三重郡小向村に森有節が築窯して万古の再興を図り、弟千秋と共に赤土と白つちを採って焼き有節万古と名のった。有節は万古の名称を継承してはいるが、其の作品は自らの考案によって新しい意匠になっている。即ち木型に依る製法、紙型を用いて釉薬の吹き付け、模様切篏細工切継細工、木理、モミコミ等の制作方法又釉薬特に しょうえじ薬の発明は、当時の世人を驚嘆せしめた。

 この有節の陶法技術が、製陶業界につくした功績は偉大なものである。

 其の頃殷賑を極めた七里の渡し桑名宿に、この有節万古が名物となって旅人の好評を博した。

 

四、桑名万古

 利に聡い桑名商人は、有節万古の売れ行きに着眼し、有節の陶法を探り得てこれを模造紙、土産物工業として発生したのがこの桑名万古である。

 幕末から明治の始めにかけて、桑名の至る所に何々万古と各自が名称の看板をかけて、土産物として売っていった。是等の万古焼は安価な土産物が目的であって、品質も粗悪である。専門の技術者は極めて少なく、素人の家内職を利用したので、有節万古とは比較にならぬ低級なものであった。又、業者には積極性なく、土産物以外に進出せず、関西鉄道の開通によって、宿駅桑名が衰微すると共に、桑名万古も消えて行ったのである。

 

 明治二十何年頃かの作、鉄道唱歌の一節に、

 

 勢州桑名の産物は 萬古の陶器に桑名盆 

 時雨蛤そのほかに 白魚漁業の名も高し

 

 この唄のできた頃には、桑名万古は終わりに近い頃であった。盛時は十戸も数えた窯元も次々と廃業し、その関係者からは何らかの形で、四日市万古に吸収している。桑名万古にも仲々の名工があって布山、孫三可笑等はその著名なものである。

 

 

土曜日です。ご来館者がたくさん!!嬉しい限りです。ブログは、合間に記していますので、仲々進みが・・・そして、漢字が読めなかったり、意味が不明だったりと、学びは、やはり学びですね、スラスラとはまいりません。本日は章の途中ですが、ここまでと致します。

 

グランマかずま