前回の続き 桑名万古の続きです。
桑名万古にも仲々の名工があって布山、孫三郎可笑等はその著名なものである。大体腕の良いものが最後まで残って、康長の松岡宗三郎方にその作品を持ちより焼成して四日市に運び、四日市市の商人の手で販売せられて居ったが、最後に残った、松岡宗三郎が廃業してからは、各自が生地を四日市まで運び四日市で焼いた。それも一人減り、二人減り遂になくなったのである。
五、四日市万古 山中忠左衛門・堀友直
さて四日市における万古の始まりは、末永(川原町)の山中忠左衛門がその生産を計劃し、有節の陶法を得んとしたが、有節厳にそれを秘して開かづ、依って桑名万古の作品に就き嘉永六年より研究を始め、明治三年に至り成功したのである。又、三ツ谷の堀友直は旧幕時代長嶋藩士出会って、文久元年から桑名万古の研究を続け、同藩士のて内職に生地の製法を教え、作らしめ、自宅に窯を築いて焼成して居ったものが維新となり、明治四年三谷に移住して窯を築き、万古焼を輸出すべく開業したのであった。
六、伊賀焼系統 上嶋庄助・田端教生
是れより先文政年間に、阿倉川の唯福寺前に伊賀陶工上嶋庄助が登窯を築き、食器茶碗の類を盛んに製造した。又唯福寺住職の田端教生は、この上嶋の陶法を学び、更に自らの趣味を入れて各種も陶器を作り、自ら彩画し焼いて楽しんで居った。又、その頃羽津村に藤井元七なる者、阿倉川駅北方の地に是れ又伊賀の陶法に依り土瓶、食器、台所用具等を作り「ひので」の印を押して雅味のあるものを焼いて居った。この窯は後年三ツ谷の堀友直に譲り、自分は赤土の土屋となっていた。
上嶋庄助も唯福寺も、この元七も、明治の初年に廃絶している。元七の窯を譲り受けた堀友直が、其の場に二十八年間と言う途方もない長い窯を築いたが、生地の生産と販路がこれに伴づ漸くしてこの窯は廃絶して今はなんの跡形もない。上嶋庄助の窯跡は明治四十年まで、茶碗屋屋敷と称してその遺跡があった。今の小林卯之松の屋敷に南唯福寺には境内の各所から遺物が出る。
是等三軒の伊賀焼系統の陶器は、益田佐造、内田又蔵及元七の使用人善八などに依っ、山中忠左衛門と、堀友直及びもっと初期の開窯者の中へ技術が流れて行った。忠左衛門が試験研究の頃には、上嶋庄助や田端教正について教えを受けたのであろう。四日市万古の祖先は、桑名の主流に之等の伊賀陶法を多分に入れて生まれたものである。
七、川村又助
明治初年から七、八年頃までに、山中忠左衛門、堀友直の外に二、三開窯したようであるが、皆その販売の途に苦慮し、生業微々として振わづ殆ど廃絶に頻して居った。川村又助これをなげき明治八年問屋を開業して其の販路の開拓と海外輸出の途を開き、品位向上のために技術徒弟養成の法を講じ、業者の統轄に意を尽くす等業界の振興に全力を傾注したのであった。其の当時の窯業者及び、問屋は詳らかでないが、大体左記の人々を挙げることができる。
(鳥井町) 伊達嘉助 中島直次郎 花井親米
(川原町) 中山孫七 小林政吉 後藤伝七
(太鼓町) 蔀 庄平
(水車町) 森 正吉
(三ツ谷) 水野勝造
(浜田町) 生川善作
(南川原町) 田中治助(商人)
是等の人々が、山中忠左衛門、堀友直、川村又助等に協力して萬古焼の基礎を作ったのである。この基礎の上に立って今日の大万古焼にまで発展した。其の過程を便宜上左記の五期に分ちて探って見ることにした。而し、戦災に依って歴史の古い同業組合と、工業組合商業組合の諸記録は全部焼失し、古い歴史を持つ業者の資料と参考品の殆どは失われて、的確なる史実を得るに至ら不るを遺憾とするのである。
第 一 期 創 生 期 自 明治初年・・・・至 明治三十年
第 二 期 転 換 期 自 明治三十年・・・至 明治四十五年
第 三 期 発 展 期 大正時代
第 四 期 統 制 期 自 昭和元年・・・・至 大戦
第 五 期 復 興 期 自 終戦・・・・・・至 元 今