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古萬古はうつくしい 8


kobanko8

古萬古 (江戸中期)

赤絵窓山水文雪輪鉢(巾20センチ)

とても寒い日です。

 

明日、雪が降らないことを祈ります。というのも先ほど、左目の手術をすませ少し落ち着いたところです。明日、明後日と、術後経過を診せにでかけなくてはならないから・・・雪が降るとやっかいです!!

右眼の時よりも、水を多く流しいれたのか、涙状の水分が2時間たっても湧いてくる・・・・・左側だけ、鼻水が垂れる・・・・・まだ、左目は、膜がかかったような見え方しかしていませんが、明日になると、世の中の白黒がはっきりすると思います。

 

親からもらったレンズを粉砕抽出してしまったわけです…両目とも…ある種の喪失感があります。

 

人生50年と言われていたころは、レンズが曇り視力がなくなっても、人間、そのままの状態で生きていたわけですよね。

もちろん、長寿の人間は少なかったわけでしょうから、それでよかったんですね。きっと、

 

 

さてさて、うつくしい古萬古ですが、これも同じものは図録にはありません。よく似たものはみつけましたが、径が、3センチもちがいます。

 

色絵山水文雪輪手鉢

 

とありました。色絵と赤絵の違い。

窓 のあるなし。

形状は酷似。

 

 

メラメラメラメラメラメラメラメラメラメラ

前回の続きです。

 

さらに室町末期から江戸初期にわたる茶会記のルイに、伊勢天目の名が散見され、伊勢産の天目かと考えられていた。しかしこれは「毛吹草」(松江重頼、寛永15年編)巻四の諸国名産の美濃の部に「瀬戸焼物 伊勢天目ト云ウモ当国ヨリ出スト云」とあり、かつ当時伊勢山田の御師が年々美濃から天目その他の陶器を需要していた事実によって、伊勢天目と世上呼ばれていたことがわかった。

 

 先年 松阪市松ヶ崎の蒲生氏郷の城址から、一群の天目破片が発掘され、あるいは伊勢天目かと一時宣伝されたことがあったが、瀬戸天目に良く似ていて、かつ焼成道具も発見されなかったので、やはり瀬戸天目かという結論に落ち着いたことがある。

 

 ついでに江戸時代に入って、延宝六年(1678)に土佐尾戸焼の陶祖森田久右衛門が書いた江戸旅日記の桑名の項に、次の記事が見えている。

 

 一、九月四日、安藤六左衛門より桑名焼物仕所手引被仰付、

   同道仕細工見物、弁窯所見物仕申、但焼物師甚左衛門と     

   申候。

 一、同 日、 此時分之焼物ハ前やき申し候桑名やきより悪敷

    出来仕候由、安藤六左衛門御咄、前やき申者ハ尾張より

    参焼申候、是ハ上手にて在之由御咄。

 一、同 日、桑名焼仕候所ハ御城元廿五丁ほと有山中也、釜 

   六つ有、薪松木、かまのやうたい京やきのことく

   (丸山和夫「森田久右衛門江戸日記」、「東洋陶磁」第5号)

 

 この記事によると、桑名にはすでに以前から窯があって、尾張の陶工が来て焼いていた。森田久右衛門が訪ねた延宝六年当時の陶工は甚左衛門であるが、これについては水谷英三氏の詳細な調査研究があるので、それによって その概略を紹介したい。

 

 

 甚左衛門、姓は岡本で、はじめ瓦師で桑名の鍋屋町に住したが、のち僧となって信行(しんぎょう)と号した。北別所の聖衆寺(じょうじゅじ)真言宗醍醐派に入って同寺を再興し、製陶に巧みなので、自ら陶土をもって阿弥陀坐像(天和二年戌八月二十九日信行隠士)銘)造ったが、瓦製なので俗に同寺も土佛さんと呼ばれている。

 

 

土佛さん

 

遺品の主なものを挙げれば、

青磁 狛犬一対 (延宝四年奉寄進辰三月廿四日願主岡本甚左衛門銘、桑名市走井山勧学寺蔵)、

                                上下矢印

狛犬一対

 

瓦製狛犬一対(延宝九幸酉九月日信行キンシ」銘、桑名市西別所神明神社蔵)、

 

 

染付錆絵徳利一対(「信」印銘、同神社蔵)

 

                               上下矢印

徳利

 

銑釉菊唐草彫文徳利二対(「信」印銘、「貞享四年三月朔日信行自作」銘、桑名市江陽神館神社蔵)、

 

瓦製狛犬一対(「宝永年中為岡本氏安全如意満足奉上御宝前、願主信」「岡本氏願成就如意安全奉拝上神前、願主神」銘、同神社蔵)などがあり、なお珍奇なものに「瓦製掛佛二個(多度伊藤春夫氏蔵)があるが、先手観音(享保三年戌七月朔日仰蓮社一誉生阿良観信行七一歳拝作」銘)と如来像(「天照皇大神宮御身体奉初請仕当北別所村室性山椿守元禄二己巳九月十五日一誉信行作」銘)である。

 

 信行の墓は聖衆寺にあり、没年は「享保一七子正月十七日八十五歳」である。その作は信行焼、あるいは、土仏焼、西県焼と呼ばれている。その窯跡は桑名東方の立坂神社跡に一部残っており、窯道具が採取されている。

 この桑名焼の存在は、古萬古にとって年代的に近接している点からも注目されているもので、はじめ尾張の陶法をうけてはいるが、延宝当時にあっては、とくに京窯の知見に富む森田久右衛門によって、陶窯の形式が京窯に似ると指摘されているのは、関心を払わざるを得ない。

古萬古との直接の関連については、なお云為できないが、なんらかの影響は考えてよいだろう。

 

 

と、ここまでで、本日は終了です。

次回は、

(二) 古萬古

 

いよいよです。

 

さあ、これから辞書でしらべていきます。

 

左目は閉じたままで作業・・・やはりスピードがおちることはいなめません。

 

しかし、明日の朝、ワンコ達をつれて白む前の庭にでていくのが楽しみです。

 

親からいただいたレンズを十分使い、新しいレンズと交換した私、レンズだけサイボーグ・・・ですかねえ得意げ

 

 

ばんこグランマ数馬でした。

 

 

 

 

 

 

 


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