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桑名萬古


歴史に関心を持つようになったのは つい最近のことです。

人はひとりづつ顔が異なるように、性格も、なにもかも一人づつことなっている、

ということはわかっていますが、一人の人間のなかでも変化していくものですからね。

経験を重ねていって 初めてたどりつく興味関心の源なんていうこともアリなのでしょう。

ばんこ焼の歴史を学ぶも江戸時代末から明治、大正という年号がちらつくようにあってきました。

本日は 桑名萬古 編です。

 

桑名万古唄文角皿
 
唄文角皿   高さ1.8  底径7.0

 

(六) 桑名萬古

 

 世評が高く、売れ行きの良かった有節萬古に着目して有節亜流の萬古焼が幕末から明治の初めにかけて、桑名のあちこちに興った。

 

 桑名は旧幕時代、参勤交替の諸侯の宿泊に当たり、維新後も宿場として頗る殷賑を極めた。その旅人の土産物として桑名萬は、好評を博し盛んに製作された。

 

 有節萬古の項に引用した川喜田家の書留の中に、「模造の窯所追々出来、桑名のみにも二十余窯に及べり」とある。

聊か(いささか)オーバーであるが、その繁昌の模様を想像することが出来る。

 

 

 「安永萬古」桑名萬古のリーダー佐藤久米造の製作したものである。

 

 彼は桑名矢田町の人で文政二年(1819年)の生。

 

 佐藤家は弄山の娘婿である桑名矢田町の旧家近藤善吉の親戚であった。彼は、もと刳物師(くりものし)であったが、或時森有節から、その創案になる木型見本を示され、その復製を頼まれたが、なかなかその構造が判らず、苦心の末、それを水中に浸して分解観察し、無事注文に応ずる事が出来た。有節以外誰も知らなかった木型の仕組みを理解した久米造の評判は広まり、長嶋藩主増山候に大砲鋳造の為武器方として招かれ、三人扶持を給せられたと云う。

 

安政三年(1856年)には、竹川竹斉の射和萬古の開窯を手伝ったが、有節萬古の人気に刺激され、藩公の許を得て、長嶋場内松ヶ鼻に築窯製陶を試みた。

 

 廃藩後安永の町屋𣘺北詰に窯を築き作陶、彩料と本金の用法を苦心研究した。

 

桑名万古色絵草花文水注

色絵草花文水注  高さ6.2  底径7.0

 彼は竹斉から古萬古使用の丸形にばんこ横列鋳鉄の印を贈られ、自ら萬古の正統を称していた。

 

 明治十四年(1881年)歿、その弟子に 松岡鉄次郎堀友直、加藤権六、水谷孫三郎、加藤茂衛門、山本数馬などが居る。

 

 

佐藤千代造=久米造の長男、父と共に製陶に従事したが、病弱のため、父歿後、其窯を松岡甚兵衛、松岡鉄次郎に譲り、桑名八幡瀬古に移り、小窯を築いて温故焼に類する品を作って一窯出したが明治十六年(1883年)三十一才で歿した。

 

松岡鉄次郎=安永の松岡甚兵衛の長男、文久元年(1861年)生、久米造の窯を継承して盛んに茶器等を製し、四日市川村組を経て九州及び外国へ輸出した。明治三十五年(1902年)四十五才頃は最も盛んであったが、其の後漸次縮小し、六十五才で廃業した。その製品には、凡て「桑名萬古」の印を捺した。

 

水越与三郎=萬古の画工松岡鉄次郎の窯で絵付けをした。

 

「布山萬古」布山由太郎通称庄吉、号布山、春景、美濃の人で二十九才の時、桑名に移住して製陶三昧に耽った。彼は窯を所有せず、所々の窯に雇われて製作したが絶対に素人の依頼に応じなかった。たたみ作りの名手で作品は西洋風のものが多かった。大正元年’(1912年)歿七十七才。銘 「布山」「布山春景」等、養子駒次郎が二年間父の業を手伝った後薬種商に転じた。

 

「孫三萬古」水谷孫三郎桑名舟町の人。佐藤久米造の門、亀の手捻りを得意とし、型製及び手捻りの急須が多い。大正五年(1916年9歿、六十八才。銘は「孫三」「九花萬古」「日本孫三造」

 

「権六萬古」 加藤権六=桑名矢田町の人、佐藤久米造の門弟、千秋流の型急須b¥の名手であった。昭和六年(1931年)没年九十三歳。

 

「走井萬古」加藤茂右衛門=寛政十一年(1799年)西桑名太夫の旧家に生れる。佐藤久米造より陶技を習得し、明治十一年(1878年)京都より精華なる陶土を  走井山山麓に築窯製陶したが、暫時にして廃した。織部写しの向付などが遺っている。銘「走井萬古」明治二十二年(1889年)歿、九十一才。

 

精華=京都丸山の人、明治十一年(1878年)頃加藤茂右衛門にまねかれて来桑、後四日市阿倉川唯福寺に仮寓し、山中忠左衛門の窯にて製陶に従事した。また窯道具も作った。

 

 

「精陶軒萬古」 松村清吉=桑名鍋屋町の人、明治十二年(1879年)桑名藩史川澄明等と共に陶器工場精陶軒を開いた。開窯約十年にして閉鎖した。明治三十八年(1905年)歿す。62歳。

 

千葉秋月=名は清光、通称清次郎、桑名宮通り伊藤勘三郎二男、家は代々藩の塗り師、家業を修めて其の技に長じた。また絵画、彫刻及び製陶に巧みで明治十二年(1879年)製陶軒職工の教頭となる。主に手捻りや、絵付けを指導した。明治四十二年(1909年)歿 七十五歳。

 

「天神萬古」  後藤秀信,朝日町縄生天神宮の神主、後藤家13代、性風流を好み、天神山附近の赤土、城槌を採り、手捻るりで茶器を作り、又自ら釉薬を研究して之を施し、その作品を人々に与えた。世にこれを天神萬古と呼んだ。明治六年(1873年)歿五十一歳。嗣子隆政(大正九年歿)孫政義(昭和五年歿)が先業を継ぎ、昭和初頭休業す。銘「天神萬古」、「萬古」等がある。

 

寅次郎=天神萬古の陶工、後森翠峰開窯の際森陶華園に移った。

 

 そのほかに「山城屋萬古」、「三河屋萬古」等の名が遺っており、赤松東介、山本数馬、助九郎らの陶工の名も知られて居る。

 

 これらの桑名萬古は、一部を除き、安価な土産物が目的であって、品質も粗悪なものが多く(量産のため家内仕事に依存していた)有節萬古とは、比較にならないものであった。

 

 彼らは、土産物以外に進出しようとする積極性に乏しく、四日市港開設、関西鉄道の開通によって、宿駅桑名が衰微すると共に消える運命にあった。

 

 明治二十年頃の鉄道唱歌の一節に

 

 

勢州桑名の産物は  萬古の陶器の桑名盆

時雨蛤そのほかに  白魚漁業の名も高し

 

この歌の出来た頃は、桑名萬古も終わりに近く、その後の関係者は何らかの形で四日市萬古焼に吸収されていったのである。

 

 

う~~ん、そういうことだったんですかあ?!

というしかありませんが、私たちが、なにげなく「ばんこやき」と口にしていますが、こんな紆余曲折があったなんて・・・・

 

ますます先が楽しみになってまいりました。

 

ばんこグランマでした。

 

 

桑名万古六角振出

六角振出  高さ8.5  底径6・0  胴径8.5

桑名萬古色絵菊花文六角宝瓶

色絵菊花文六角宝瓶 高さ5.9  底径4.2

布山由太郎作

桑名万古色絵草花文筆筒
 
色絵草花文筆筒 高さ11.4 底径8.7


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