天変地異といいたくなるほど、天候が穏やかでありません。
続けて増えてしまう「被災地}・・・・・いいことではない!!
河川の決壊、信じられぬ事だったと思います。
どうぞ、一日も早く常態に戻られますことをお祈り申し上げます。
さて、歴史を学ぶ、前回からずいぶんと時間が経ってしまいました。
思えばこの会館の館長になってから、14か月になります。
現在は、秋の萬古祭り、土鍋グランプリの日にむけて
スタッフの面々と準備に追われていますが、
時間が経つにつれ、忙しくなっていきます。
それだけ解ってきたことが多いのだ!!と思うことにいたします。
(八)四日市萬古焼
この項は「萬古不易」-四日市萬古焼のあゆみ-を参照いたしました
原著 和木康光 編集/監修 山本広巳
四日市萬古焼発祥の地は、東阿倉川 唯福寺である。
唯福寺第13世住職田端教正(たばた きょうしょう)が、信楽焼きの陶工 上島庄助と唯福寺境内前と境内に窯を築いたのが始まりである。
商業用の窯 海蔵庵窯 と住職専用の趣味の窯 楽只窯。
田端教生師の製陶に関しては昭和30年(1955年)11月3日に
建立された教生師顕彰の記念碑「海蔵庵窯跡」の碑文に詳しく記されている。
碑文(要旨)
この唯福寺第13世の住職田端教生師は文政12年(1829)滋賀県信楽の陶工上島庄助(陶号は器楽)を東阿倉川(当時は勢州三重郡阿倉川村)にまねいて、この地に窯を築き、製陶を始めた。これが四日市における陶器作りの始まりである。
当時 上島庄助は窯を築くために必要な耐火粘土を手に入れるため大変苦労をして何年も近くの野原や山の土で試験を重ねた。
5,60回の試験をしても適当な耐火レンガにはならなかったが、ついに庚申山(天然記念物いぬなし自生地の西)の土で成功して窯を築いた。
そして陶器を作るための多くの職人と用具や釉薬などの原料はすべて信楽に求めた。
ところが材料などはあまり適していなかったため、教生師や庄助は想像を絶する苦労を重ねることとなった。
しかし教生師は、あくまでこの陶器づくりを産業として発展させ、地域の貧しい住民に職を与えようと決心した。そのためには多くの資金が必要となったが、一部のお檀家さんの反対を押し切って私財を投げ打ち、これを成功させたのである。
たまたま四日市の代官であった多羅尾氏は信楽の出身で、同じ故郷の上島庄助が積極的に関係していることや、これを財政的に援助している教生師の熱意に感じて、大いにこの製陶業に力を貸し、援助した。そして遂に四日市の萬古焼きを御用窯にして海蔵庵窯で出来上がった陶器をすべて幕府が買い上げたのである。
そのため周辺の貧しい農民は次第に生活が豊かになった。しかし、幕末になって多羅尾氏が退官し、庄助も病気となって、慶応年間にこの海蔵庵窯を廃業した。
職人数名は羽津の藤井元七の窯に移り、さらに山中忠左衛門、堀友直「海蔵村初代村長明治22年5月から明治24年3月」などにその技術を合流させ、四日市萬古の基礎をなした。
教生師は歳をとってからは私塾を開き子弟に勉学を教えるかたわら陶器づくりを愉しみ(楽只窯)明治14年83歳で亡くなられた。
今から120余年前に教生師が蒔いた一粒の種は、現在の萬古焼きとして大変大きく進歩発展して、重要な地場産業となっている。ここにそのご御を忘れないように志あるものが、この「海蔵庵窯趾」の記念碑を建てて永く伝えたいと思う。 昭和30年文化の日
これが碑文 要旨です。
なんだか私が8歳の時に建てられた碑ですが、 時空を超えてなにかが伝わってまいります。
次回に続きます。 グランマ数馬 合掌