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今だからこそ 18     (五)射和萬古


弄山の妻八百の生家南勢射和村(現松阪市内)の東竹川家の幕末の当主竹斉が、古萬古の復興を唱えて安政三年(1856年)同所に射和萬古開窯した。

 竹川家は近江浅井家から出て天正の頃熊野街道の通路に当たる射和村に居を構え、江戸に店を持ち、代々両替屋を営んだ。元禄以降幕府の為替御用を命ぜられ、ほかに酒と醤油店及び荒物店を持ち、本家が中心となり、新宅竹川と東竹川がその両翼となって盛大に営業をしていた。

 竹斉は、その東竹川家の長男として文化六年(1809年)に生まれ、若い頃から勉強家で、佐藤信淵に経済学を学んだ。

 嘉永六年(千八百五十三年)アメリカの軍船四艘が浦賀沖に来たり、物情騒然たるを聞き、憤懣に堪えず、勝海舟に『海防護国論』を贈った程の人物であった。

 竹斉は幼名を馬之助、元服して名を新兵衛、諱を政胖字を子広と称し、代々の家名である彦三郎をも名乗った。

 辣腕家の竹斉は、事実上の竹川一族の中心人物であったが、嘉永七年(1854年)46歳の時家督を嗣子に譲って隠居し、父政信の晩年の号竹斉を襲って通名とした。

 竹川本家三代政長の女が弄山の高祖父の配となり、又竹斉の祖父正忠の妹が弄山の夫人であった。

 竹斉の父政信が壮年の頃、常詰として江戸店に居た時、弄山は故人であったが、叔母は存命であり、番頭の安達新兵衛が主宰していた小梅の古萬古の窯を折々訪ねて萬古焼の実際を見聞きした。その陶土のこと、釉薬のことなどを一々記録したものを竹斉に伝えた。

 竹斉は、射和萬古の『萬古由来書』の中に萬古の法を知るものは、我よりも外に無しと云い、又『世に萬古てふ物を人々持てはやし、彼所此所より萬古の印すえたるを作り出すを見たり、されど、こは古きを模し、印を贋作なし押しぬるにて萬古の昔の法を伝えしにもあらず」と有節萬古と、その末流をさして批判している。

 射和萬古こそ萬古の本流であると唱え、土地の産業振興の目的で始めたのであると、公式声明をしている。

 然し、窯場で働いた者は、他郷の人達で、土地の者は二、三雑役に使われたに過ぎなかった。

 竹斉は実技に携わらず、各地の名工を集めた芸術家集団による作陶であった。

 集まったのは、江戸の井田己斉(吉六)、京都の近藤勇(ゆう)、信楽の奥田弥助、絵付画工服部閑鵞(かんが)その他の陶工は、嘉平治、弥兵衛、市助、仁助、三造、宮吉、福松などであった。

 弄山の遠縁に当たる桑名の佐藤久米造が、登り窯築造の前後しばらく働いていた。

 竹斉は、実弟が養嗣となっている隣村中万(ちゅうま)の竹内家の江戸店『乳熊屋』(ちゅうまや)が、江戸はもとより、遠く函館方面まで味噌の販路のあることに目を付け、そのルートで陶器も相当量捌けるものと見込んで開業したのであった。

 だが幕末の経済界の変動、和戦問題の低迷不安からくる不景気に遭遇し、製品が思う様に売れず、色々と画策したが、遂に、文久三年(1861年)開窯七年にして廃窯の止む無きに至ったのである。

 射和萬古は丹生(にゅうう)産の土を用い、作品は技術的に高度なもので、器形、作風は種々あり、茶の輸出容器も作られた。

 中でも弥助が作った燈炉は大作で見応えのある者である。(挿絵S)

 竹斉は明治十五年(1882年)七十四歳で卒した。

 

 


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