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今だからこそ17 (四)有節萬古 2


 成形は巧みなロクロ挽きのものが主であったが、急須や徳利は融雪の特異な発明と謂われる木型を使用して作られた。(写真23、24)(挿絵N)

写真23 有節萬古(幕末〜明治)

木型作り盛絵菊花文急須<高さ9.5cm>

写真24  有節萬古(幕末〜明治)

木型作り千秋作青磁櫻花文急須<高さ11cm>

挿絵N 有節萬古木型作り鶴の絵の徳利一対

木型は提灯の製作に使う木枠によく似ていて、多くの木片にて構成されている。(挿絵O)

挿し絵O 急須作りの木型(有節仕様のものではない) 

 有節は、木型の表面に龍の文様が現れる様にした。この方法を知らずに初めて見る人には摩訶不思議であったと思われる。

 我国での木型抜きによる成形は、有節が初めてである。

 またこの外に紙型による吹き絵、切嵌細工、切継細工、木理、もみこみ等の方法や、菊花盛り上げ等発明考案は多く、弟千秋による9すのお茶の蓋を注ぐ時に落ちぬ為の工夫、とっての先の遊環、蓋のぐるぐる回るつまみは世の人の驚きであり、大いに賞賛を浴びた。

 有節萬古の鮮やかな色彩による大和絵風絵模様と、繊細な陶技からうけるものは、古萬古の重厚さに比し、卑俗浅薄なりとする人があるけれども、それが時代の要求であり、工芸のもつ宿命であったと云える。

 然し乍ら初代有節、千秋の作品には、新しい文物を吸収しようとする意欲と、生来の工芸家としての天分が滲み出ている。

 彼らは弄山の創始命名した萬古焼を時代に即して発展させたのである。

 有節の意気は「日本有節」「萬古有節」の印に表れ、

 先秋の誇りは「千秋不易」の印に窺うことができる。

 有節は文久二年(1862年)に苗字袴御免、同御用達を、元治元年(1864年)帯刀御免、慶応三年には国産陶器職取締役を命ぜられ、その後明治年間各博覧会などに出品して褒賞を受け皇室お買上げの栄も幾度か蒙ったが、晩年になって中風症を病み、明治十五年(1882年)に75歳で没した。

 弟千秋は、兄有節に先立ち元治元年に世を去った。四十九才の壮年出会った。

次に有節萬古の後継者並びに関係者を記す。

  『二代  有節』通称勘三郎、初代有節の三男、嘉永元年(1848年)生、父の偉業を継ぐも、兄修輔の負債の後始末をさせられた。明治四十四年(1911年)歿六十四歳。

  『三代  有節』通称俊男、明治十八年(1885年)生、二代長男、父の偉業を継ぐ、専ら家伝を守り外来の釉薬を用いず、有節萬古の伝統を堅持した。昭和16年(1941年)歿年57歳。

 『四代  有節』三代長男、通称一男、昭和24年(1949年)歿35歳。

 『五代  有節』三代三男俊治、昭和35年(1960年)歿35歳。

『森 修輔』初代有節二男天保十二年(1841年)生、桑名広瀬与左衛門の鍋に釉薬を施し、現今の琺瑯鉄器の先駆をなした。その最初の工場は、有節の窯場であって、その作業は修輔の担当であった。彼は指物にも非凡であったが、野心家で味噌醤油の醸造に手を出し、家財を傾けた。その後始末は二代がやった。大正四年(1951年)歿、84歳。

 『森 玄次郎』二代有節の甥で初代有節以来の画工であった。


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