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今だからこそ45  11昭和初年の四日市萬古焼


 

 

 昭和時代に入ると、大正焼も研究の時代から安定した商品となりつつあった。莫大な損失を与えた大正焼の嵌入と吹きは、業者の必死の研究にも拘らず、改善することは大変困難な問題であった。

釉薬に泡状の粒子の生じる吹きは、焼成技術によって改良する事が出来た。      

 業者は嵌入の問題解決と製品のデザインの改良、新技術の導入、研究のために工業試験場の設置を望んでいた。           

昭和元年、これに応えて三重県工業試験場の分工場が東阿倉川に設けられることとなった。それは業者が苦心惨憺の上、実地の経験によって大正焼の嵌入の問題を解決した時期であった。長い苦難ののち勝ち得たと言う自信から、業者は、意外な事に試験場を利用する者は少なかった。大正焼の前途を究め、これを指導することは容易ではなかった。試験場は業者と共に研究する程度であった。だが、色釉薬の製法と、その普及は試験場の大きな功績であった。

 大正焼が軌道に乗り、山本益次郎の硬質陶器の研究の完成(昭和2年)、その生産稼働が始まると、四日市萬古焼の生産は、飛躍的に急上昇する事となった。データーによると、昭和3年、百十二萬円であった年間生産額が、昭和四年には4百十二萬円と画期的増額を示している。

  その反面、旧来の萬古焼登り窯製品は、大正焼と交替、徐々に消滅して行ったのである。登窯製品中一番早くその姿を消したのは、薬掛けの土瓶、急須、煎茶器等であった。(昭和10年頃)続いて四日市萬古焼中、一番歴史の古い型製の土瓶、急須の生産が止んだ。(昭和14、5年ごろ)唯一生き残ったのはロクロ製の赤土急須であった。

  この赤土急須は還元焼成で作られて来た。酸化焔焼成を目的とした対象焼の石炭窯では、焼成は不可能であった。その石炭窯を改良して、還元焔焼成を可能にしたのは、須藤善太郎の苦心研究によるものである。だが赤土独特の光沢を出すため松割木を併用した。

  大躍進をした昭和四年末の業界の状況を知るため、四日市商工会議所が発表しているところの、職工10人以上を使用していた四日市萬古焼の工場一覧を次に示して見る事とする。

 

工場名         所在      職工数   代表者

株式会社伊藤商店   北川原町    70    伊藤常吉

真生製陶所      北川原町    75    中野 柳

合資会社須藤製陶所  鳥居町     70    須藤善太郎

泗水タイル合資会社  北川原町    36    伊藤英一

丸も製陶所      北川原町    27    諸戸與一郎

宮田製陶所      北川原町    40    宮田冨吉

山田製陶所      新浜町     16    山田兼吉

丸春宮製陶所     水車町     15    宮田春造

辻本製陶所      北川原町    10    辻本貞一郎 

神尾製陶所      北川原町    10    神尾とめ

株式会社川村組    末永     200    川村又助

森欽製陶所      末永     120    森欽太郎  山庄製陶所       東阿倉川   130    山本増次郎

竹内製陶所      東阿倉川    15    竹内政吉  

ヤマ三製陶所     東阿倉川    18    山本貞三  

マル定製陶所     東阿倉川    14    渡辺貞七

安井兄弟商会     東阿倉川    13    安井市太郎

藤平製陶所      東阿倉川    12    藤井平治郎

笹岡製陶所      東阿倉川    63    笹岡伊三郎

カネ芳製陶所     東阿倉川    12    舘 芳松

水鉄製陶所      東阿倉川    13    水谷鉄雄

水源製陶所      東阿倉川    17    水谷源太郎

山形製陶所      東阿倉川    20    舘 佐助

木村製陶所      東阿倉川    15    木村周太郎

ヤマタ製陶所     東阿倉川    10    舘 寅次郎

マル三製陶所     東阿倉川    19    岩田茂三郎

石田製陶所      東阿倉川    16    石田喜一

カネユ製陶所     東阿倉川    10    西脇勇太郎

ヤマ由製陶所     東阿倉川    10    安井廉平

ヤマヤ製陶所     東阿倉川    12    伊藤松太郎

西脇製陶所      東阿倉川    10    西脇庄太郎

ヤマ治製陶所     東阿倉川    18    内田治吉

 

以上33工場が掲載されている。この他に収益税額15円以上のものとして、合資会社大丸製陶所、合資会社四日市製陶所、荒木弥蔵、伊藤忠信、井田万三郎、花井富三郎、花井新兵衛、太田寅吉、加藤善次、片山熊吉、田中與三郎、塚田栄一、中野新治郎、村山徳次郎、小山末松、坂倉與郎、伊藤直吉、石崎彌兵衛、舘幾治郎、内山松太郎、黒田丹次郎、藤井松太郎、笹岡せつゑ、水谷彦八郎、水谷半兵衛、白木四郎右衛門、

 

  陶土業者として、服部留松、河本兼次郎、

  陶土鞘製造業者として、山田末吉、山田芳男、多湖慶次郎、

  生地製造業者として、川北うめ、山本喜之助、森茂十郎

  絵付け業者として、田代庄太郎、石田喜三太、大野喜代蔵、

  毛利傳治、後藤藤蔵、保位増太郎、

  タイル業者として、藤田新之助、

  タイル販売に、加藤正春の名が見える。

 

四日市萬古焼販売業(同15円以上)として、井ノ口秀雄、田中六郎、中川兵太郎、中島種次郎、中山源治郎、上田松次郎、山田惣七、小林米吉、浅野常次郎、森慶次郎、伊藤彦次郎、伊藤長九郎、伊藤小左衛門、伊藤長四郎、伊藤長兵衛、粕野伊三郎、中山周作、山本喜太郎、前川常一、田中団治、小林與惣吉、小林留吉、斉木幸吉、斉木伊三郎、榊原喜平、佐々木義教、宮田小右衛門、柴田又一、柴田弥平、千賀卯一、須藤一彦、熊本貞次郎、山本友吉、松原民治郎、間宮佐一、阿部伝次郎、柴田敏一、千賀文一、園田捨吉、大平豊太郎、西脇末吉、浅野松二郎、服部貞技、山田合資会社、合資会社藤本組

 

 上の人々が挙げられている。これに漏れた人達も沢山あった事と思われます。当時の四日市萬古焼の盛況を知る事が出来る。ところが、その直後、世界的大不況が訪れて来たのであった。

 

 

 

 ここまでで、昭和初年にの四日市萬古焼の章は終わりました。次は12、大正から昭和初年に活躍した陶芸家・・・・に移行するのですが、わかっていたことではありますが、このように、写し書きをしていますと、現在の私は、今のコロナ禍ではなく、大正時代、昭和初年にワープしているような感覚が起こります。時代の息吹が伝わってまいります。

 この冊子が、もう新しい書物としては手に入らないとわかった時に、どうしても残しておきたくて、このような写し書きを始めたのですが、ここまで一字一句漏らさずに付き合っていると、私は、満岡先生の講義を長い時間かけて受講している・・・そんな時間になっています。

これも、書物との出会いであり、縁であり、BANKOグランマとしては至福。

ありがとうございます。