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今だからこそ46 12大正〜昭和初年に活躍した陶芸家


 

大正時代から昭和の初年には、明治時代の名人陶工とは異なり、古萬古写し、有節萬古写し、内外の古陶磁写し、抹茶器、展覧会用作品等を個人で作り出す独立した陶芸家が現れた。一方、相変わらず四日市萬古焼の分業を受け持った名人達もいたのである。個人作家については、在四日市にこだわらず列挙する事とす。

 

碧 山  水谷寅次郎

 大正焼の創始者水谷寅次郎の四日市萬古焼への貢献は、既に詳しく記述した。ともすれば、粗製濫造の印象すらある大正焼も、彼が研究完成した時点での半磁器式特殊硬質陶器は観賞に充分応えるものであり、彼の陶芸家としての才能を充分発揮している。(写真45)

 

 

実技者であり、科学者であった彼の釉薬と焼成技術より産み出された挿絵42の蓋物は大正焼業者の手鑑とす可きものである。彼は後半生を「暁風園碧山」として古陶磁の研究に終始した。彼の門から、香悦、瑞山、月華、楽山、延寿らを輩出した事を特記しておく。

 

 

挿絵42  四日市萬古「半磁器緑釉蓋物」

碧山水谷寅次郎作(大正)

 

 

香 悦  大塚斉家

 明治25年、京都に生まれる。伯父が清水焼に関係していたので、焼き物に興味を抱きながら成長した。13歳のとき、家庭事情から家出して、水谷寅次郎のところで絵付け工として修業。阿倉川の山形製陶所、桑名の陶華園、名古屋の七本松製陶所に絵付指導に出かけている。大正12年奈良県生駒山の伊藤伝七の築いた「生駒窯」に従事した。昭和2年鳥居町に築窯、一本立ちになる。翌昭和3年、河原町に移築して本格的作陶生活に入る。作品は古萬古赤絵写し物が得意であった。古器に紛れる出来栄えである。有節写し等もあるが、優美な絵付けは京光悦に擬して伊勢光悦と言われる。昭和31年、65歳歿。

 

 

 

月 華   加賀清太郎

 明治23年桑名宮通りに生まれる。家業は金物屋であった。伯父の水谷寅次郎の指導にて、弟の「瑞山」が桑名新矢田で窯を築いて作陶を始めたのに刺激され焼き物を楽しむようになった。大正8年、桑名市長貝塚栄之助の援助を得て、桑名元赤須賀に築窯、弟瑞山と共同して本格的製陶を開始した。瑞山が下仕事をして、彼が仕上げを受け持った。彼の作品は繊細で器用、あらゆる分野の作品を遺している。板谷波山に師事して帝展に9回入選した。清香堂の号を用う。昭和12年、48歳で病殁。

 

 

 

翠 峰   森 茂生

  慶應元年生まれ、代議士当選4回の名士。大正4年、50歳の時、元来好きであった古萬古、有節萬古の復元を目論見、窯を築いて「陶華園」と称した。細工人 藤井陶楽、絵付師林良雄、ロクロ師内田松山らの名工を集めて良心的な作品を産み出した。青磁ものに素晴らしいものがある。

彼の古萬古の蒐集は有名であった。そのコレクションを東京で処分したと言う。