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今だからこそ63 昭和53年度における萬古陶磁器工業協同組合の現況 続


 

(四) 関連業界の現況

 

  業界の一部には、一貫生産の企業もあるが特に昭和40年以降水質汚濁、騒音、鉛毒問題など、山積みする公害問題と取り組まねばならないことと、加えて人的、技術問題等により、大半の企業が分業制になり、従って、これら関連企業は、萬古焼製品の欠かすことのできない重要な役割を果たしている。

 

 

(五) 燃料の動向

 

   直接原材料としての燃料は、業界にとって最も重要な視点である。これが昭和54年春OPCE(太平洋地域経済協力機構)にて協議されて以来、価格面で破格の高騰を来たし、今尚止めるところのない状態であるため、業界には不安と混迷が到来している。

  価格は常に、安定を望むべきであるが、これにより、全国の陶磁器製品は、大巾な価格の改正が行われようとしている。

 

 

 

(六)萬古焼生産額年間の推移(萬古陶磁器工業協同組合集計)

 

 

♦️  萬古陶磁器工業協同組合の沿革

 

昭和6年(1931)  

■  日本陶磁器工業組合連合会(日陶連)設立し、陶磁器工業の統制始まる。

  

■  8月8日、不況と濫売による業界の混乱と倒産続出、打開の為に、工業組合法に則り、萬古陶磁器工業組合を創立する。

 

昭和7年(1932)

■  商工省の共同施設補助金をえて、陶土の協同工場を建設する。

 

昭和8年(1933)

■  同じく補助金をえて、事務所、共同販売所を建設する。

■  5月、30年間にわたって存続してきた万古陶磁器同業組合を解散する。

■  大日本陶磁器輸出組合連合会を、結成、輸出数量の統制を始める。(日陶連)

 

昭和10年(1935)

■  萬古陶磁器商工両組合より、末永町に萬古神社を創設する。(以後毎年5月15日に、萬古まつりを行う)

 

昭和13年(1938)

■  東海地方陶業界に対し、日陶連で、石炭の配給統制を実施。

 

昭和14年(1939)

■  価格等統制令により、当色の価格は、9月18日現在の価格に据置きされる。

 

昭和15年(1940)

■  生活用陶磁器の地方公定価格(産地別価格)の公定価格制定。

■  公定価格品の全面的共同販売制実施(日陶連)

 

昭和16年(1941)

■  生活用陶磁器の 地方公定価格を廃し、全国統一の公定価格制定。

■  商工省陶磁器工業整備要綱を示し、陶磁器の計画生産と企業整備始まる。

 

昭和17年(1942)

■  新興陶磁器配給統制(株)(陶磁器代用品の統制機関)設立。

■  戦時態勢突入により、組合法の改正と企業整備を行う。

 

昭和18年(1943)

■  日本陶磁器交易(株)を設立し、輸出陶磁器はすべて、本機関一本で取扱うことになる。

 

昭和19年(1944)

■  日陶連、全国陶磁器統制組合に移行。

■  統制組合法の施行により、三重県陶磁器工業統制組合に改組移行、理事長に山本貞三氏就任。

 

昭和20年(1945)

■  6月18日、四日市大空襲の被害を蒙り業界の95%が灰燼と化す。

 

昭和21年(1946)

■  日本陶磁器工業協議会設立(新生日陶連)

 

昭和22年(1947)

■  日本陶磁器工業協議会、日本陶磁器交易(株)解体さる。

■  陶業協会設立(日陶連)

■  2月、協同組合法の施行により、前項の統制組合を解散し、萬古陶磁器工業協同組合を設立する。組合員78名、地区は四日市市及び三重郡。理事長に山本増治郎氏就任する。戦災復旧と輸出の振興に協同の福利増進を図られ、日夜献身的努力を致し、東奔西走中惜しくも現職に倒れられる。

 

昭和23年(1948)

■  陶業協会、日本陶業連盟に移行。

■  理事長に竹内政吉氏就任される。

■  萬古窯業トンネル窯完成

 

 

昭和24年(1949)

■  全陶磁器の国内統制価格撤廃され、自由価格となる。

 

 

 

昭和25年(1950)

■  日本陶磁器検査(株)設立し、業界自主検査実施。

■  3月、中小企業協同組合法の施行により前項の組合を解散し、萬古陶磁器工業協同組合(同名称)を設立、組合員100名、地区は四日市市、三重郡、理事長に石崎一男氏が就任する。組合目的のため、共同施設製土工場を目論むも組合法に則り一カ年の任期にて退任する。

 

 

 

昭和26年(1951)

■  日本陶磁器工業協同組合連合会(日陶連)設立。

■  萬古陶磁器工業協同組合理事長に、水谷富幸氏 就任する。

■  3月、川原町に製土工場を建設する。

 

 

昭和27年(1952)

■  日本陶磁器輸出組合設立。

■  各地にトンネル窯の設置相次ぐ。

■  東阿倉川に伝統赤萬古用陶土の工場を建設する。

 

 

昭和28年(1953)

■  陶磁器焼成、石炭より重油への切り替え急進展する。

■  川原町に計量設備を施設する。

 

 

 

 

昭和29年(1954)

■  日本陶磁器検査(株)の強制検査実施を確立。

■  萬古工業会館を建設、事務所、会議室、見本陳列場等を設置する。

 

 

 

昭和30年(1955) 

■   1月、理事長に笹岡鉄男氏就任する。

■   3月5日、萬古神社は、神社本庁の承認を受けて、宗教法人萬古神社を設立する。

 

昭和31年(1956)

■  日本陶磁器意匠センター設立、輸出陶磁器の認証及び登録制始まる。

 

昭和32年(1957)

■  日本陶磁器検査協会設立(陶磁器検査(株)改組。

■  通産省Gマーク事業に基く陶磁器グッドデザイン選定事業実施。             

■  阿倉川に製土工場を建設する。優良輸出向陶土製造、水ひ装置等、近代化した工場を施設する。

 

 

昭和34年(1959)

■ 四日市陶磁器工業組合を設置する。組合員115名、地区は四日市市及び三重郡。目的は不況による過当競争のため、価格の低下円滑なる取引が阻害されることなく秩序ある取引を以って海外市場の信用を保つ目的のため、数量調整その他の制限を行う事を目的とする。理事長に森忠明氏就任する。

■  9月26日伊勢湾台風のため被害続出、交通は途絶え、死者続出、工場の煙突は倒れ、屋根は吹飛び 、各所に甚大な被害を被る。

 

昭和35年(1960)

■  日本陶磁器工業組合連合会(団体法)設立。(素地と関西の両連合会に分離)

 

 

 

昭和38年(1963)

■  意匠登録制度を実施し、デザイン等の保護に努める。

■  公害対策基本法公布さる。

 

 

昭和42年(1967)

■  煤煙規正法により、石炭窯は全廃し、電気、ガス、重油を燃料とする窯となる。

 

 

昭和44年(1969)

■  理事長に山本喜之助氏就任する。

■  山本貞三氏、三重県窯業試験場新庁舎建設委員長を務め、2月、落成セル。

■  中野三世司氏建設委員長として、製土工場原料置場及び貸倉庫建設する。

 

昭和46年(1971)

■  理事長に西脇庄太郎氏就任する。

■  ニクソン・ショック発生。

 

 

昭和47年(1972)

■  理事長に伊達秀雄氏就任する。

■  内需用、食卓用陶磁器の鉛、カドミューム溶出防止の安全基準設定される。

 

 

昭和48年(1973)

■  5月17日、阿倉川製土工場を近代化し川原町工場を併合一元化して生産の増強を高める。

 

 

昭和49年(1974)

■  3月15日、陶芸センター落成する。萬古焼製品の宣伝販売、技術開発室等を設置する。

■  10月、オイルショック発生、燃料不足と高騰に苦慮する。

 

 

昭和51年(1976)

■  陶磁器技能検定制度公布。

 

 

 

昭和52年(1977)

■  10月、円高ショックにより輸出価格の低下と不振により業界混迷する。

 

 

昭和53年(1978)

■  中国産国泥導入研究開始に入る。白色陶磁器用の可そ性粘土資源の枯渇化が進んでいる。これを打開するため、代替え原料とし中国産粘土(黒泥)の試験研究開始する。

■  萬古太鼓(振興会)発足。四日市祭りなどに出演し、大いに萬古焼の鼓舞、宣伝に努める。

■  11月、萬古テニスクラブ発足、会員28名。

 

 

 

昭和54年(1979)

■  1月10日、四日市萬古焼陶芸協会発足。会長片山義郎氏就任。

■  1月12日、伝統的工芸品産業に指定され、名称を「四日市萬古焼」と統一する。

■  5月、理事長に榊原孫七氏就任する。

■  春以降、オペックの輸出制限に端を発し、再び、オイルショック始まる。本誌編纂途中、急激な燃料の値上がりが続く。

■  11月、四日市萬古焼史発刊する。実行委員長安藤清軌他12名。   

 

 

 

 

年表の解説の項、とも言える箇所の写しでした・・・令和4年2022年の現在、このばんこの里会館にて記述筆記をしています私、息が詰まりそうになっています。私の誕生前からの「四日市萬古焼史」であることは重々承知。

しかし、自分の誕生年に近づいてくるとなぜか緊張してきました。この書が発刊された年で終わるのはわかっていましたが、やはり思っていたより歴史は重い。この書の写し作業ももうあとわずかになってまいりました・・・・・