古萬古はうつくしい 7
お久しぶりです。
あっというまに12月です。
年末はやはり忙しく、あわただしくすぎています。
そんな時に、私は眼の手術をいたしました。
今週の火曜日に右眼。
無事に手術は済み、毎日経過診察に通っています。
無事に済めば、たいしたことはないのです。
が、やはり瞳孔をひらいての検査から始まって、
常ではないこと、いつもしていることをしてはいけないこと、
などなどあり、落ち着かない日々です。
古萬古はうつくしい 7
赤絵斗雞文雪輪手鉢 江戸時代中期 (幅24.6センチ)
時間がたってしまいましたが、古萬古の続きです。
この手鉢の写真は図録にはのっていませんでした。
じつは 私、意味も読みも確認したく、それも、図録などでみたらすぐに調べたい!! ということで、アイパッドに電子辞書を購入しました。
しかし、漢字はむづかしい・・・・(-。-;)
せっかく、歴史を学ぼうと思い立ったのですから、それはそれ、一から ものがたりを追って行こうかとおもいます。
作品の写真は歴史に直接関係なく掲載していくことにいたします。
ひとりごとですが、四日市ばんこ焼の関連書籍を、すべて網羅することはできません。
すべてどころか・・・・・・・ですね。
ただ、書籍はなくなってしまうということがあります。
いまのところ、私が、一番参考にしている書籍も、その中の一冊かと思います。
現在、私が手に入れたくとも 手に入れることは出来ないと思います。
すべて、コピーするわけにもいかず・・・・・
可能な限り、ここに 書き写してみようかと考えています。
なくならず、ほゞ永久に残すことができるかと。
(一)はしがき
萬古焼について記すにあたって、関連の有無は措くとして、
まず北勢地方の製陶の事情を、いささか遡って考えてみたい。
三重県では、窯業の面では、歴史的に北勢のほうがさかんである。「平家物語」巻一に、「伊勢の瓶子(平氏)は酢瓶(眇)なりけり」とあるのは有名であるが、これによって平安末から鎌倉にかけて、伊勢瓶子なるものがポピュラーであったことは判る。しかし現在では、伊勢瓶子とはいかなるものか、不明である。
一方、鈴鹿市稲生町の伊奈富神社に伝世の三足壺(三重県文化財)があるが、嘉禎二年(1236)の墨書銘がある。名古屋大学教授楢崎彰一氏によれば、作風からみてこの年代に相当のものであるが、窯については既知の何れの窯にも属さないもので、あるいはいわゆる伊勢窯ではないかという。
三足壺 「嘉禎二年丙申白子云々」墨書
鈴鹿市伊奈富神社蔵
鈴鹿市附近には、三重県で最大の須恵器古窯址群があるので、伊勢瓶子をその後継者とみることは、この場合、当を得たものであろう。かなりの時代にわたって伊勢瓶子を生産した窯、これを仮に伊勢窯と呼ぶとして、現在ではその正体はなお不明であるが、北勢の一画に製陶の厳たる事実のあったことは疑えないだろう。
また室町以来発達した瀬戸茶人の中に、尾張と伊勢の境で焼かれた伊勢手と呼ばれるものがあると、茶方はいう。伊勢手春慶などというものがそれである。俗に伊勢窯ともいうが、前記伊勢窯とは、年代的にも隔たりがあり、異なるものである。
※※※
う~~ん、面白い!!
なにがって、知らないことばかりであるからです。
想像の翼もんですね、これは、
伊勢瓶子・・・・・これから調べてみなきゃなんない・・・
私、書き始めたときはまだ決意までいってませんでしたけど、の、お借りしています書物、このブログにすべて書き写しましょう・・・時間はかかると思いますが、ただページをめくるより、文言をなぞって書き写していくと、なまなましくいろいろなことが見えてくるような感覚なんです。
休み休みになりますが、おつきあいくださいませ。
もちろん、古萬古はうつくしい は続けます。
眼がアンバランスですが、張り切っているグランマ数馬です。
ま、焦らず、焦らず、 眼の養生もしなくちゃだし・・・です。