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古萬古は美しい 10


古萬古はうつくしい 10

 

赤絵手付盃 (江戸中期 高さ5センチ)

青磁赤絵手付盃(江戸中期 高さ4センチ)

 

 

 

古萬古の項続きます。

 

 安永丁酉は六年(1777)だから、弄山の生年は享保三年(1718)である。

 

 弄山は生来風流の志が、厚かったが、幼時表千家覚々斎に手ほどきを受け、弄山十三歳の時覚々斎が没してからは、次で如心斎に師事して茶道に精進した。

 

 当時の弄山について、その孫にあたる山田彦四朗は、

 「北勢桑名住人、沼波五左衛門、弄山と号す。此の家代々茶事を嗜み、此者陶器を作ることを好み、慰に楽焼をいたし、其の頃地頭へ相願ひ、小向村と申所にて、山辺の土をいただき、色々うつし物等こしらえ云々」(「本朝陶器改證」)

と述べているが、数寄者の習いとして、慰みに楽焼を試み、やがて官許を得て別荘のあった小向村(現三重県朝日町小向)の星川(今は廃川)の辺に本窯を築いて、作陶に一層身を入れるようになった。

 

すなわち萬古焼の誕生である。

 

また南勢射和村の竹川竹斎が使用人内山宋五郎の名で発表した「射和萬古由緒書」の中で、

 

「わが曾祖父の名(註 竹斎の曾祖父政栄)の親族にて桑名なる沼波五左衛門主、元文の頃より心慰みに焼給ひしを人々もてはやししかは云々」

 

とあるように。弄山の趣味からの製陶が発足したのは、二十歳すぎであった。

 

「始め勢州に住し、徒らに陶器を制す」。

 

始め伊勢の田舎で素人の道楽で作陶していたが、多く茶陶で茶人たちの評判もなかなかよろしい。

 

 

まったく中途半端な終わり方をしてしまいますが、次回をお楽しみにということにいたします。

 

新年の名残はまだ、新年会とか、新春の何たらとかいう寄合に残っています。明日は成人式が多く催される様子・・・

 

本年がよき年になりますことを願いつつ、本日はここまでです。

 

新年あたふたの ばんこグランマでした。

 

 


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