今日は暖かです。
お彼岸。
91歳の姑さんの「お願い}でお墓参りに出かけました。
お花を替えて、お水を替えて、お線香を。
91歳・・・このお墓には彼女の知っている人は3人入っているはずですが、
姑さんと血縁のある人はひとりもいません。
草取りをしながら、次々に訪れる墓参りの人たちをそれとなく眺め、
あれこれ想いを遊ばせました。
年齢のせいもあると思いますが、歴史に関心が強くなっている…自分を興味深く思います。
さてさて 一から学ぼう萬古焼ですが、歴史を紐解いていきますと限りなく連なります。
本日は (四) 有節萬古 に入ります。
(四) 有節萬古
安永六年(1777年)萬古の祖弄山が世を去り、その業を継いだ番頭の安達新兵衛が没すると萬古は一時業を閉ざした。
それから四十年たった天保二年(1831年)に萬古発祥の地である朝日町小向で、二十四才の森有節と十六才の弟森千秋が協力して萬古再興の煙を上げたのである。
伝えるところによると弄山の嗣子は陶業に興味なく、弄山の萬古焼が吐絶していることを残念に思っていた弄山の妹の亭主山田彦左衛門は、かねがね親交のあった有節が大変な器用人であることに惚れ込み、萬古焼の再興を勧めたという。
だが、その話は年齢的に無理がある。(弄山の二男が山田家の養子になっている。)
森有節は、通稲与左衛門といい、有節はその号であるが、後年これを以て名とした。また堂号を摘山堂(てきざんどう)と称した。
彼は文化五年(1808年)桑名田町に生まれた。
有節は父親与市ゆずりの器用な男で、神社の木馬や、狛犬、自身の肖像を木彫りで作っている。自宅も自ら建築した程である。
弟千秋は名を与平といい号は陽楓軒、文化十三年(1816年)の生まれで、兄に劣らぬ工芸的才能の持ち主であった。
天分のある兄弟の協力による陶技の研究練磨は、目を見張るものがあった。わずかな間に立派な業績を上げたものとみえ、天保三年には、早くも領主松平候より賞典として食禄五人口を給わせられたと記録されている。
有節は、弄山ゆかりの名谷山(めんたに)の赤土&白土を採取して製陶した。
初めのうちは古萬古風の赤絵や、茶陶の写し物の再現を図った。
「古安東と見し笠牛の香合、古萬古と見し稲喰鳥の香合など、今の有節に同じ型ありて釉の工合も識別ならぬ程なり、陶法巧みにして楽焼等古人の器を模造す」と云う記事や、津の川喜多家の書留に有節の作る楽焼等に萬古の印を捺すは贋物であるから、萬古と有節の印を二つ捺せとクレームをつけられたと云う興味深い記載がある。
だんだん精巧になった陶技は、古萬古の写しから脱却して、新規なものへと発展していった。
古萬古とは、ガラッと変わった有節萬古の誕生には、その根底に、幕末の王政復古。明治の文明開化の風潮の影響があった。
この前、有節萬古を見せて、触らせていただきました!
このブログにも写真ともどもご報告いたしました。
ばんこの里会館のお近くの伊藤様のお店にて。
もう一度写真を。
伊藤様 ありがとうございました。
また 会いにいかせていただきます。
有節編 まだまだ続きます。
写真でもうっとりо(ж>▽<)y ☆
ばんこグランマ 数馬桂子