ばんこの里会館のまえに、萬古神社があります。
きょうは、5月9日、10日にある「ばんこ祭り」の取材の撮影があり、午前中に、ばんこの里会館にでかけました。
私は、昨年の6月から働き始めましたので、初めての春です。
桜の樹があるといいのになあ、
と思いながら角を曲がりましたら、会館には桜はありませんが、
萬古神社の境内に 桜が・・・・
見事に咲いていました。
帰りに写真を撮ろうって思ってたのに~~~~~。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
忘れちゃって~~~~~
気を取り直して、
各地の萬古関係諸窯
四日市萬古焼きの歴史を詳述する前に、萬古と並び称された伊勢の諸窯、萬古の名を冠した他国の陶業を記す事とする。
古くから伊勢の四窯と呼ばれているのは、萬古、安東、陳明、時中である。
古萬古、古安東に就いては記述したので、陳明、時中の二窯について先ず語ろう。
「陳明焼」
陳明焼は多気郡斎宮村大字金剛坂(現明和町金剛坂)に生まれた森島陳明が作り出したものである。地侍の森島家の四代嘉平陳明は、鳳文章、応古、程斉等の号を持った篆刻家であった。彼は多芸の人で、和、漢の学に通じ、書画、句作に巧みで華道の蘊蓄も深かったという。作陶は、低火度焼成の茶器、置物の類であった。
遺品は極めて少なく、珍重されている。
文政十三年八月行年七十七歳で歿す。彼の辞世として
一、日の本に生まれて終わる今さらば高天原に宿り申さん。
一、月一つ 浮世の空に、置きみやげ
一、程身生不識其前今日存三知蕨先 人生幾何一夢我常殺終郷天
の三種が伝えられており、彼の教養を窺わせる。
「時中焼」
時中焼は、時中萬古とも云われるもので、和泥斉時中寸丈が、松阪市垣鼻に創始したものである。時中焼も軟陶であり、陳明焼同様、茶器、置物類で遺品は稀である。国学者本居宣長の日記の中に出てくる和泥斉寸丈とは、阿波焼の陶工丈七のことである。
阿波藩十二代蜂須賀重喜公が、裏千家一燈宋室を招いて、お庭焼の茶器を焼いた。一燈に同道してこの阿波焼を始めたのが丈七であった。
この丈七が阿波から伊勢松阪に移って時中焼を作ったと云う以外詳しい記録がない。文化、文政頃と推定される。
次に萬古の名を冠した陶業として次の諸窯が知られている。
「美濃萬古」
温故焼又は赤坂焼、御勝山焼とも言われある。
清水平七(温故)が、美濃赤坂に安政六年に開窯したものが主なものである。彼は森有節の影響を受けている。彼はそれより前、今尾藩竹腰候のお庭焼に、瀬戸の春岱とともに従事しており、この魁翠園の品も萬古風である。平七明治二十九年歿後は弟勇助(号石僊)河野忠治(号大雅)らが業を継承した。
のち、石僊は伊勢二見浦で能舞技楽麺根付を焼いていた。
「下野萬古」
栃木県足利郡樺崎村において明治初年橋本忠平が製作したものである。忠平は初代有節に就いて製法を学び、帰村後村内の土質が萬古ににているので業を始めた。しかし遂に伊勢萬古に及ばなかった。
「岩代萬古」
福島県二本松市において嘉永、安政の頃、山下春吉が創始し、明治維新以来、渡辺安明が従事した。明治以来萬古焼の法を伝えた。明治二十年代廃絶。
作品に「双松雲渓」「新月軒」の銘あり。
「秋田萬古」
秋田県南秋田郡保戸野愛宕町のやきもの。佐伯孫三郎が同地の、赤土、粘土、青土を使って
創始したもので萬古焼に類したものであった。明治五年福島県二本松の陶工村田鉄之助を招き、桑名に派遣して萬古焼の製法を習得させ、有節風秋田萬古を製陶した。これに士族の子弟五十余名が就業していた。磁気をも試みたが失敗、遂に業を閉ざした。
以上のほか、伊勢路に次の窯があった。
「旭焼」 伊勢市で朝日奈為之丞が明治中期開窯したもの。
「神路焼」 伊勢市の倉田山で作られたもので、神山宇之助 創始。
「小山焼」 多気郡相可町付近の小山村で幕末に土屋政吉(光川亭仙馬と号す)が焼いたも ので、染付ものである。