第二節 萬古の名称
萬古と云う名は陶祖沼波弄山が其の作品に「萬古」又は「萬古不易」の印を押したことに始まる。弄山の工房を萬古堂店鋪は萬古屋と呼んだ。弄山の没後、森有節が萬古の名称をゆづり受け、又弄山の親類に当たる南勢射和村の竹川竹斎も萬古の名を用いた。
其の流れを汲んだ、桑名萬古、四日市萬古と続いてきたが、それは原料から製品が同一系統であるから萬古とよんでも良いが、大正焼きとなっては最早や萬古焼ではない 更に硬質陶器に至っては根本的に別のものである。
今の製品の中で萬古焼らしいものは赤土急須であるが、これとても明治の初年美濃の国赤坂の陶工清水平七(号 温故)の技法を多分に入れたもので弄山から一貫した萬古焼は殆ど消えて有節の陶法の一部が極く僅かな人によってつがれている程度であるが今四日市全体の製品にも何かの部分に弄山の遺法が残っている。要は四日市地方一帯に算出する陶器の総称を萬古焼とするのも間違いではない。
次に「萬古」か「万古」か何れが正しいか諸書によってこれを決めたい。
(一)「陶磁器法書」の末尾に萬古堂三世浅茅生隠士三阿が寛政四年 五月に誌した跋文の中に「萬古之租姓沼波称吾左衛門号弄山千如心斎之門人好茶道」
(二)南勢射和村の内山宗五郎守忠が竹川竹斎の談に基いて安政四年夏に記した射和萬古由緒書の中に「前略抑も萬古不易てふ号もて焼騎士は曽祖父の君云々」
(三)新編武蔵風土記卷二十二の小梅の項に
「萬古焼は小梅村の南に在り宝暦の頃萬古館次郎とて陶器を製するもの勢州桑名より来りて呉須まがえ及び赤絵薬などの陶器を作り出せり因て世人萬古焼と称せり」
(四)本朝陶器攷證卷二に
「萬古焼の水指しを見しに箱書付安達新兵衛として判は古萬古の印を押したり或人云此新兵衛と云は古萬古の手代なり」と
右の四例には何れも「萬」の字を使用し、また古萬古や融雪の作品にも萬の字を用いているから「萬」が正しいようである。