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古きをたどって


今日はどうにか傘をささずにすみそうです。決して気持ちのよい日というわけにはいきません。6月なんだなあ・・・と6月生まれの私は己にしかわからぬ感慨(大げさ!)にふけります。こんな日には、静かに過ごすにかぎります。

 

幸せなことだと、常に感謝していますが、周囲の皆様から、「館長、勉強せいや」というお言葉と一緒に、萬古焼に関する書物、資料をお借りしています。。それはそれは、古い書物のコピーだったりしますので、判読するのも結構大変なものもあったりいたします。が、貴重な資料ですので、会館にての保存資料としてコピーさせていただいたり、皆さんにご紹介したりしています。このブログでも、絶版になった書物、「四日市萬古焼史」200ページを書写しさせていただきました。ちょっと話がそれますが、

この写し作業は、2020年11月7日から始まり、第73回のラストは、2022年8月20日でした。このブログですから、73回に分けての掲載の間には、様々な、その時に掲載すべきことが入ってきます。続けて読み進めることができないので、ホームページに、一冊の書物として別掲載の形をとってあります。

 

 もうすでに1ヶ月を超えてしまいましたが、5月の連休明けに会館へ出向きましたら、見知らぬ方からのお便りが机の上にございました。

封を開けますと、まず、「ばんこグランマ様」という呼びかけです。とっても親しみを感じました。続くお手紙の内容は、その方のおじい様のお話で、おじい様のお仕事が萬古焼に関係するお仕事であったことから、おじい様のお名前と、お仕事の内容を検索なさったそうです。

 

そうしましたら、、この館長ブログの「四日市萬古焼史」の一節にヒット!

そこで、「四日市萬古焼史」をお読みになったそうです。

実際には、会ったこともないおじい様に触れた様な、おじい様のことを理解することができた様な、嬉しい感覚を持つことができました、とあり、インターネットにのせていただき、ありがとうございました、というとても丁寧な御礼をいただきました。グランマにとっては、ものすごく、とっても嬉しいお便りでした。

 

こんな出会いがあるんだあ!!  で、ますます、絶版になってしまっている書物、資料などを、電脳の場所に保管しておくことに関心が向いています。ですが、問題も多々ありです。こんなご時世ですので、おそらくどんなものにも、無断掲載を禁ずる、との一文があり、無い場合でもお問い合わせをいたしますと、転写、掲載は禁じます。とのお答えがほとんどです。今は、お知らせしたい、残しておきたい、というグランマの熱い思いと、思う様に転載できない現実とで、思いを空振りにしないためにはどうしたらよいのかと、空回り状態。しかし、めげずにやれることをやる、ことに。ちょっと話がそれてちょっとでは無くなってしまいました、ごめんなさい。ペコリ

 

無断掲載を禁ずる、の一文のない資料、をカバーしていこうと思います。この原本はおそらく四日市市立図書館にはあるのでは無いかと、もしくは、海蔵地区の市民センターにあるやも???今度、何らかの方法で原本探しを試みてみます。

 

 

 

 

 

 

海蔵小誌  

第五章  萬古焼

 

 

第一節  地方産業としての萬古焼

 

萬古焼は次の二つの観点から説くことが出来る。

 一、美術工芸品としての萬古焼  

 二、生活必需品生産興行としての萬古焼

 

 陶祖弄山や中興の祖有節は前者に属し、共に名工であると同時に多くの新規考案もあり製陶業界に盡した功績は偉大であるが、弄山の作品は限られた一部の階級者に納まり、かの有名な江戸萬古に至っては将軍家の御用と云う凡そ大衆に縁のない存在であり、又有節は自己の名声と利欲に終始し其の優れた技術は一子相伝として堅く門戸を閉ざした一陶工にすぎないとも云える。

 

 其の後興った桑名萬古や四日市萬古の中からも幾多の名工を出して居るが、社会に於ける萬古焼の名声は是等名工の作品によるものではなく、巨額の外貨を稼ぎ、一万に余る人口を養う大産業の構成を指すのである。

 萬古焼を地方産業に計畫した山中忠左衛門や堀友直等も今日の盛大を予想しなかったであろう。

 有節萬古の芸術的とこれが商品価値に魅力を持ちこれを大量に生産して国内はもちろん、輸出品にも企図したことは確かに先見の明なりと云えるが、山中忠左衛門は大家の旦那、堀友直は武士の商売、其の他当時の先覚者等も皆斯業の素人ばかりで其の失費犠牲も莫大で尋常一葉の苦労ではなかった。 

 然し其の頃川原町筋の住民は宿駅四日市のために生活してきたものが明治維新となり、参観後退の制も廃止されて、この地は衰微し、多くの失業者が出た。この時萬古焼産業が興ってこれらの人々は職を得て生活の困窮から逃がれることができた。

 

 従って是等の関係者は最初から多くの資金を投じて生産の設備を持ち、原料から販売までの一貫作業するほどの規模を有する者はなく家庭の内職に始まり、幾分の資金を作って窯を築いたり又商人となり土屋匣鉢屋等も生まれて作業別による分業からなる零細な業者と副業とによって構成した典型的な小企業形態で発達したのが萬古焼産業である。この産業も生まれ出る陣痛をつづけ、其の間多くの関係者に興亡があったが、明治二十年頃になると、窯屋も十数戸となり、北は三谷から水車町、太鼓町、川原町、鳥居町と皆旧東海道筋に在って生素地師も商人も其の付近に散在していた。

 

 又、原料土は羽津村で採掘し東阿倉川には型萬古の生素地師が明治の初年から農業の副業と専門者も出来て一応地方産業としての形態を整えて来た。

 然し乍ら是等の業者は其の技術も設備も各自の考案と修練によるものであって一般には容易に公開を阻むばかりでなく、更に他人の技術や考案を盗み取らんとするなど、これが経済の面にも関係して業界の混乱を果たし発展を阻害する様になって来た。

 

 川村又助や其の他有力業者の発起で、明治十八年に万古陶磁器商工同業組合を設立し、川村又助が組合長、堀友直が副組合長となって業者の専製権、専売権の規程を定め業者の利益の擁護と業界の統制を図った。其の頃窯業の適地である東阿倉川には一軒の業者もないことは、不思議に思われるが、これは農家が窯の煙が農作物に害を与えると言う理由で窯の築造を許さなかった。末永も浜一色も同様であった。

 この農家と窯やの関係は昭和四、五年頃までつづいたが、大正焼きの発明で萬古焼が飛躍的発展をとげ農工の比重が変わって自然に消滅していった。

 

 明治の中期から(明治32年田中音吉築窯)大正年代において東阿倉川で築窯の場合は先ず隣地隣宅の承諾を得て区内に申出で組頭会議で其の諾否を決せられ、当時建築地隣組中の承諾を必要としたもので特に隣地隣宅の承諾は重大であった。其の場合承諾の付帯事項として金品の贈呈は必至で其の額は大体次の様なものであった。

(一)区に納入する額     貳拾円から参拾円  

(二)隣組中         拾円程度   

(三)隣地隣宅        各戸に砂糖又は酒其の他の品   

 是等の総額は現在の価格に換算して拾万円にも相当する額であって、而も其の労苦は非常なものであった。更に養蚕の上 日を定めて、窯の火入れを禁止せられ、稲の出穂期にも休業した程で煤煙が農作物に及ぼす被害を理由に、窯屋は農家に押えられていた。