第三節 製品の変遷
2 各地の萬古焼
(一)射和萬古
飯南郡射和村の豪家竹川竹斎が村民の産業とする目的で、安政二年 自邸内に窯を築き諸国から陶工を集めて萬古焼の再興を図ったが明治初年に廃絶した。
(二)松阪萬古
佐久間芳鱗が松阪付近で萬古の窯を開いた。
(三)時中萬古
和泥斎時中寸丈(文化元年没)が松阪近傍垣鼻で作った。
(四)鈴鹿萬古
鈴鹿郡関町に以前あったもので其の後中絶したのを、明治中期に鳥居町の中島伊三郎と伊藤清太郎が再興し、関萬古と読んだ。
(五)下野萬古
栃木県足利郡樺崎村で明治初年橋本忠平が桑名で技術を得て帰村し作った。
(六)岩代萬古
福島県二本松町で桑名の陶法を伝えて作った。
(七)秋田萬古
明治五年に秋田県秋田郡泉村の村田鉄之助が桑名に来て萬古の陶法を伝習して製陶したもの。
(八)その他市内富田と坂部で明治初年開窯したが間もなく廃業した。
3 萬古焼系統の陶器
(一)安東焼
寛保年間 津の藩主藤堂公が桑名の陶工瑞牙を招いて津の愛宕山下で焼いたのが安東焼きの起源で、その作品を古安東と呼んだ。瑞牙は弄山の弟子であるから萬古焼とは血縁である。
(二)阿漕焼
津の倉田久八が天保年間古安東を再興し 文久年間其の窯を船頭町に移してから阿漕焼きと呼ぶようになった。
(三)温故焼
岐阜県不破郡赤坂の清水平七(号温故明治二十九年没)は嘉永年間諸国の陶産地回遊の際桑名に来て有節の陶法を研究し赤坂に帰り温故焼を起こし、萬古風の茶器酒器などを作った。
慶応から明治の初年にかけて四日市に来て有節の型萬古の特長を採ってこれを轆轤製と化して四日市に其の技術を残したこれが現在まで一貫して生産せられている赤土の急須である。
今でも萬古の急須を温故とも言い又其の職人を温故師とも呼ぶのである。
ここまでが、第三節 です。サクサクと進んでいきたいと思っています。
この度は、前回から2週間近くの時間が経っています。私も定期的に、を目標にしていますので、先へ進むことができなくて気になっていました。
実は 私の本業・・・本業って言い方もちょっとおかしいですね・・・って、繊維製品のメーカーなんです。それも、商品企画からですから、糸も企画し、布を織り、商品デザインをし、裁断、縫製、仕上げて、販売しています。いわゆる布製品です。
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時代にかなった製品作りに邁進していますが、15年前から、無農薬綿花、オーガニックコットンブランドも立ち上げ、ベビーからキッズ、メンズ、レディス、ゴルフウエアまで展開しています。
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具体的には、婦人服、ブラウスの型紙を作れるところまでと、其の型紙でブラウスを作り上げること。人間の洋服のパターンを作れるようになって、弊店の犬服のパターンを作りました。
話が、あちこちに飛んでいますが、そんな、布製品を製造販売している弊社、在庫処分のためのアウトレットセールを年に2回行って来ました。が、この2年半は、コロナ禍で、セールを中止。先週、ようやく、集中せずに10日間の余裕を持ったセールを開催いたしました。それが、22日(木曜日)から、昨日の30日(金曜日)までです。
私の友人知人もお客様としてたくさんいらしてくださいます。
ので、ご挨拶のため、セール中は、メンバーとしてセール会場でレジ番をする役になっています。先週の金土、そして昨日と、ブログ更新をできなかった言い訳でございます。
来週からは今までにのように、金曜日、土曜日とばんこの里会館に出向いてまいります。この、「古きを!」の記載も、第四節に入ります。