第十一節 戦時の対策
一、耐火煉瓦
対米関係が益々悪化して昭和十三年に至り、萬古焼生産額の六十%以上を占める米国向輸出は日貨排斥によって全面的に途絶し内地向品も又。米国以外の輸出向品も著しく売行きが減少して壹萬人の従業員を抱いて萬古業界は途方に暮れた。 工業組合ではこの非常重大難関に当たり、県の援助を懇請したが、県においても如何とも方法無く、自力によって局面打開につき昼夜協議を重ね、種々研究の結果左の二案に付き更に検討を加えることとした。
第一案 耐火煉瓦の製造に一大転換すること。
第二案 耐酸瓶の製造に転換すること。
右に付き原料、技術、既設設備の利用度、販路金融その他各角度から更に慎重にな検討を加え、それ等の産地販路原料の給源地等を調査した結果、耐火煉瓦に転向することに決し、役員は係を分担し、窯業試験場は技術面を担当して生産の準備を整えた。時恰も三重県においては県下の鉄工業者は軍需品の下請けを開始し、呉海軍工廠に納入の契約を結んでいた。時の商工課長野島善之助の斡旋によって耐火煉瓦を軍需品として同工廠に納入する契約をした。
而しながら陶器業者耐火煉瓦という全く経験を持たない者の、而も一時に多数転向するということは容易な事業ではないが、業者は多数の従業員を抱え又自己及従業者の生活を保証する責任を感じ、必死にそのことに当たった。この業者の一致した決意によって数量百万個以上而も耐火煉瓦の高級品であるSK33番の品を契約したのである。実に冒険と云わざるを得ない。憂慮された品質と納期も大過なく完納し得たことは全く業者の責任感と努力の賜物であった。その後も引続き新規の契約と他の工廠や会社にも納品するようになって、一時は耐火煉瓦の生産地化したが事変は愈々激化し石炭の入手の途絶えや、又従業員は応召軍需産業への転向徴用工となって事業は愈々縮小を余儀なくされた。
二、代用品
金属類は一切戦争に振り向けられて国民はその日の生活必需品にも事欠く事態となってきて、商工省は陶磁器をもって金属の代用品とすべく日陶連を通じ奨励した。即ち鍋釜、湯沸し、ガスバーナー、焼き網、寺院の佛具等で大部分は耐火物製品であった。
業者は各自に耐熱性品質の研究を続け、日陶連に於いて試験を行いこれを登録しその製品の生産と販売に便宜を與え奨励したが、劃期的発明品もなく矢張り陶器は陶器の性能であって、金属の完全な代用品は出来なかった。結局その場間に合いの品を作ったにすぎなかった。これは終戦後まで続いて完全に消滅した。
三、海綿鉄
銑鉄の不足を補うために酸化鉄を焼成して鉄に還元する海綿鉄の製造に陶磁器を利用することを軍当局の奨励によって業者に試作せしめたが完全に至らず、戦争の悪化で、原料や燃料の輸送にも支障を生じて終わった。
四、暗渠排水の土管
食糧増産の目的で湿田を乾田とする、暗渠排水用の土管を縣の奨励で工業組合が主体となって、別に陶菅会社を設立し、又その協力工場も出来て三寸から五寸までの赤焼粗製品を作り、縣に納入したがこれ又戦争の激化で休止した。
五、企業整備
平和産業を縮少整理してその余剰の設備と労力を、軍需産業に振り向けて戦力の増強に充てたのが企業整備である。萬古焼窯業者個人経営のもの百数拾工場を法人企業体三拾社に合同整理した。企業合同体に参加するものは所有の設備財産を会社に現物出資して合同し、不参加の者は残存企業体より補償金を受け、又その所有設備を国民更生公庫に譲渡し、営業権を放棄し他に転業した。これは半強制的の処置で業者は不満であったが国のためと諦めたのであった。
六、生産設備の転用
戦争の激化で物資は極度に不足し萬古焼の遊休設備は軍需及び、食料工業の資材に充てたので終戦前には陶器の製造は殆ど不可能の状態であった。