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四日市ばんこ焼 歴史を学ぶ グランマ数馬メモ12


山中碑

 

続けて台風がきていますが、四日市地区は、雨が降ったり止んだりですが、台風影響下であることには違いありません。

 

 

 

 

もうすでに被害がでている地方もありますが、被害のなきことを祈るのみです。

 

 

 

 

グランマは皆様のおかげで ばんこ焼のことについての学びは着々とすすんでおります。

 

 

 

 

知れば知るほど もっと知りたくなる・・・・そんな幸せな状態 o(^▽^)o

 

 

 

 

想像の翼が大きくふくらんでいる って 感じです。

 

 

 

 

ほんとうは、学んだことすべてをここに記録していきたいのです。

 

 

 

でも、それはやはり無理があり・・・・・

 

 

 

さてさて、いよいよ四日市が登場してきます。

 

 

 

いままで、桑名、江戸、今川橋、小梅村・・・朝日町小向・・・・

 

 

 

四日市では どなたが登場してきますか、お楽しみです。

 

 

 

四日市萬古の隆盛と貿易の広がり

 

 

 

四日市萬古の始まり

 

 

 

四日市には、有節萬古より前の文政12年(1829年)に、

信楽風の雑器窯が東阿倉川唯福寺に始まっていた。

海蔵庵窯という。

 

 

 

 

後にここに来て焼き物の手ほどきを受けた末永の庄屋 山中忠左衛門は、

有節萬古に憧れていた。

 

 

 

 

嘉永6年(1853年)には、邸内に窯を築いて、有節萬古の研究に本腰を入れた。

 

 

 

 

その20年に及ぶ 苦労が四日市萬古の始まりでsる。

 

 

 

 

山中忠左衛門

 

 

 

 

海蔵川、三滝川に挟まれた地区は毎年水害があり、年貢も滞るほどの困窮民が多かった。

 

 

 

これらの人を救済するために、ばんこ焼を地場産業として導入するのが、

山中忠左衛門の願いであった。

 

 

 

 

苦労して得た技を惜しみなく公開したために、萬古業者が次々現れ、

手捻りの半助、利助、豊助、木型の庄造、

ロクロの佐造らが育ち、家内工が激増した。

 

 

 

 

はい、四日市の海蔵川と、三滝川の間って、ここです、こですって感じですね。

 

 

 

山中忠左衛門さんの20年にわたる研究の成果が、四日市萬古焼のもとになったとあります。

 

 

 

上の写真が山中忠左衛門さんの碑です。

 

 

 

グランマ、いつか沼波弄山翁の碑、山中忠左衛門さんの碑に敬意を表しにいかなくてはです。

 

 

 

ばんこグランマ 数馬桂子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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