射和萬古 松阪の地で竹川竹斎が安政3年(1856)に興した萬古焼。竹斎は萬古焼の陶祖、沼波弄山の妻八百の生家の出で、竹斎の父が弄山死後の江戸小梅窯を訪れて古萬古の陶法(陶土、釉薬、図案など)を記錄して残し、竹斎に伝えたと言われる。竹斎はこれを手本とし、「萬古の法を知る者は我より外になし」と公言して開窯した。しかし射和萬古の作風は古萬古とか趣きを異にし、古萬古写し的な作品は見る事が出来ない。
どちらかと言えばその時代に則したものを古萬古の陶法を元に産業として興そうとしたのであろう。そんな先を見据え興した射和萬古ではあるが、幕末の不安定な状況が影響し文久3年(1863)に僅か開窯7年にして廃窯してしまう。
印銘は、「萬古不易」「萬古」「再興萬古」「射和」「いざわ」「射和萬古」「積徳園製」「雲錦園製」「射和萬古工作場」など種々の印が使われてる。
印 青磁「射和文庫」獅子陶印 青磁軸先と土型
色絵宝珠香合 四方瓶(日本醤油瓶) 白化粧手四方角瓶
井戸車の土型 青磁井戸車(滑車)竹川家の庭の井戸にて使用
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