一週間前とは比較にならない気温
18度からと予報では言っていました。
三寒四温とはまさにこう言った気候でしょうか。
時は待ってくれない、つくづく思いますが、春の準備もしていないまま
春がやってきてしまいそうです。。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
そして、確実に花粉!!
さてさて 萬古焼のお勉強がなかなか思うように進まず、実際の案件は
次々とおこり、オーバーワーク気味かな。
きょうは、萬古不易の歴史を学ぶにあたり、私の感じていますこと、
「萬古焼って、節目、節目に人物が現れるのよねえ」
その時々の時代の流れ、人々のニーズに合わせて 新しい製品をつくりだしてきている、と思われるのです。
そのキイパーソンにスポットライトを当てると解りやすいかも と。
★山中忠左衛門(1821~1876)
文政四年、三重郡八郷村伊坂(現四日市市伊坂町)に生まれ、末永村(現川原町)の大地主であり、村役であった山中家の養子になった。
末永村は北に海蔵川、南に三滝川と二つの川にはさまれた低い土地であり、
雨期になると、度々水害をうけた。田畑の損害は甚大であったが、年貢米は容赦なく取り立てられ、農民は飯米にもことかくありさまだった。
忠左衛門はなんとかしてこの地域の貧農の民を救う術を考えあぐねた。
宿場町四日市の変革変動乱期に当たり、収入減を失った旅人相手の人達、政治的に無風であった四日市へ流れ込む人達が溢れようとしていた時期でもあった。末永は東海道にも面しているため、そんな世の中の変貌を直接感じ取ることができた。
東海道を旅する人々相手の、土産物屋としての、桑名萬古の流行を見聞きして大きな収入を得ることも可能なのではないか、というもくろみもあった。
地場産業として、四日市萬古焼の創始を指向。「有節萬古」の陶法を目標にした。忠左衛門の試練は二十年を要に有したが、やっと自信を持って有節風の窯を水車(現浜一色町)に築いたのは、文明開化の押し寄せつつあった、明治三年(1870)だった。
ずいぶん簡略化いたしましたが、現在の四日市萬古焼に続いていく窯がここで誕生ということです。
まだまだ続きます。ワクワクドキドキするような秘話もあり、楽しくて!!
なにかとあわただしく時が過ぎていきます。