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今だからこそ16(四)有節萬古


安永六年(1777年)萬古の祖弄山が世を去り、その業を継いだ番頭の安達新兵衛が没すると萬古は一時業を閉じた。

 それから四十余年たった天保二年(1831年)に萬古発祥の地である朝日町小向(おぶけ)で、二十四歳の森有節と十六歳の弟千秋が協力して萬古再興の煙を上げたのである。

 伝えるところによると弄山の嗣子は陶業に興味がなく、弄山の萬古焼が吐絶していることを残念に思っていた弄山の妹の亭主山田彦左衛門は、かねがね親交のあった有節が大変な器用人であることに惚れ込み、萬古焼の再興を勧めたと云う。だがその話は年齢的に無理がある。恐らく山田家の男(弄山の二男が山田家の養子になっている)のシュ慂によるものと思われる。

 森有節は、通稲与五左衛門といい、有節はその号であるが、後年これを以って名とした。また堂号を摘山堂(てきさんどう)と称した。彼は文化五年(1808年)桑名田町に生まれた。

 有節は父親与市ゆずりの器用な男で、神社の木馬や、狛犬、自身の肖像を木彫りで作っている。自宅も自ら建築したほどである。

 弟千秋は名を与平といい号は陽楓軒(ようふうけん)、文化十三年(1816年)の生まれで、兄に劣らぬ工芸的才能の持ち主であった。

 天分のある兄弟の協力による陶技の研究練磨は、目を見張るものがあった。僅かな間に立派な業績をあげたものとみえ、天保三年には、早くも領主松平様より賞典として食禄五人口を給わせられたと記録されて居る。

 有節は、弄山ゆかりの名谷山(めんたにやま)の赤土及白土を採取して製陶した。

 初めのうちは古萬古風の赤絵(挿絵M)や、茶陶の写し物の再現を図った。

 『古安東と見し笠牛の香合、古萬古と見し稲喰鳥の香合など今の有節に同じ型ありて釉の工合も識別ならぬほどなり、陶法巧みにして楽焼など古人の器を模造す。』

という記事や、津の川喜田家の書留に融雪の作る楽焼等に萬古の印を捺すは贋物であるから、萬古と有節の印を二つ捺せとクレームをつけられたと云う興味深い記載がある。

 だんだん精巧になった陶技は、古萬古の写しから脱却して、新規なものへと発展して行った。

 古萬古とは、ガラッと変わった有節萬古の誕生には、その根底に、幕末の王政復古、明治の文明開化の風潮の影響があった。

挿絵M 有節萬古赤絵神酒徳利 ◯に有節印、弘化四丁未季夏記年

 森家の宿坊である桑名の輪崇寺の住職で、復古大和絵の浮田一恵斉の門人帆山唯念(花乃舎)画像から、有節兄弟は絵を習った。

 大和絵の粉本による草花の上絵は、有節萬古を華やかなものとした。

 その顔料は古萬古の硬彩とは異なり、粉彩盛り絵付によるものであった。特にピンク色の腥臙脂釉(しょうえんじゆう)は、日本で有節が一番初めに工夫使用したものと云われている。(写真20、21、22)

写真20 有節萬古(幕末〜明治)

十錦手松笠耳花生<高さ 23.8cm>

 写真21 有節萬古(幕末〜明治)

盛絵百花文大皿<巾 32.5cm>

22 有節萬古(幕末〜明治)

十錦手桃絵鉢<巾25cm>


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