又助の参加によって息を吹き返しつつあった萬古焼の明治十一年(1878年)の算出表は次の通りである。
萬古陶器 明治11年産出表
四日市 260篭 1987円
末永村 360篭 4293円
浜一色町 460篭 3230円
東阿倉川村 35篭 975円
小向村 不 詳 383円
計 10868円
四日市萬古焼の製造に着手した又助のところは、陶工の技術が充分に熟練せず、色々な輸出に必要な準備ができていなかった。特に荷造りなどの考案未だしの間に資金が欠乏してきた。明治15年頃には、先祖伝来の家屋敷の過半を手放す程の秘境に陥ってしまった。だが、又助の四日市萬古焼に対する情熱は尋常なものではなかった。不撓不屈、益々志を強固にし、陶工を鼓舞激励して、品質の改良に努め、新規考案を心掛け、商品として他製品より優位に立つことを目指した。
進んで内外の博覧会に出品して販路の伸長に努めたところ、漸次世間、取引先の信用は増し、営業も軌道に乗り、遂に成功するに至ったのである。
又助が、獅子奮迅の活躍をしている頃、もう一人の輸出指向の萬古窯業家堀友直も海外向けの製品の考案と製造に苦労を重ねていた。
友直は、明治11年に名古屋に支店を設け、明治18年には、横浜にも支店を置いて販路の拡張を計った。
友直は、横浜支店に二男欽治をやって、外国商館との取引に当たらせた。
当時の取引は、陶家の方で独自に色々なデザインを創案し、沢山な種類の見本を作って、これを
外国商人に提示して注文を受けると言うパターンであった。
注文を受けた品は、一旦、横浜か神戸に送り付け、全品を荷解きして、一個一個検品を受け、合格したものを再度箱詰梱包をして船積みをすると言う面倒なものであった。
友直はこの輸出品の輸出品の大量生産と燃料の節約、能率の増大を目論見、現近鉄阿倉川駅の北の藤井元七窯の跡へ長さ38間という大きな登り窯を築造した。だが生地の製造と輸出品の受注の見込み違い等の関係から、この窯を中止してしまった。余熱放熱を利用する大変進歩した設計の窯の構想であったが、残念なことに時期向早であった。
また、友直は横浜市西区浅間町に窯を築き、萬古の土を四日市から運んで萬古焼を作った。友直の「ハマ萬古」は遠き昔、萬古の鼻祖弄山が、江戸で江戸萬古を起こした事とよく似ている。弄山の顧客は徳川将軍家であり、友直は碧眼紅毛の外国人であった。弄山が紅毛志向の作品を作り、友直が日本特有のデザインを以って貿易した事は面白い取り合わせであると言える。
川村、堀両窯は、この様な苦難を乗り越え、四日市萬古焼の海外輸出に先鞭をつけたのである。
堀窯の独特な意匠による製品の中で、著名なものは、ウズラの形をした土瓶(写真39)急須等と土瓶に七福神等のお面を張りつけた「友直の面土瓶」(写真40)等がある。
川村窯の製品の中では、ねり込、友禅、切はめ、型紙絵、張付等の急須、土瓶の類(写真41、挿絵17)陶土を細い紐のように伸ばして編んで作る急須の結びつまみ、花生、鉢(挿絵18)があり、特に体の中に振り子を仕込んで首が面白く前後に長時間振る福助、三河万才、寿老人などの「首振り人形」(写真42)突飛でほほえましい川村窯の傑作であった。
写真39 堀製 ウズラ土瓶(明治)<高さ12、5cm>
写真40 四日市萬古 「堀製 魚づくし土瓶(10cm)
「堀製 面づくし土瓶」(高さ 9、5cm)
写真41 四日市萬古(明治) 川村製型紙紙絵急須<高さ8cm>
写真42 四日市萬古 (明治〜大正)
川村製 福助首ふり置物<高さ 9cm>
川村製 ドクロ置物 <高さ 11cm>
挿絵16 四日市萬古 「堀製富士山形土瓶」(明治)
挿絵17 四日市萬古「川村製友禅の急須」(明治)
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