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今だからこそ53    21 分科会の発展


 

 

(1) 世界に伸びる輸出品

 

  (イ)戦後輸出の推移

 昭和20年12月、愛知、岐阜、三重の三県を中心とした新しい民主的な陶磁器団体を作ろうと言う動きがでてきた。翌年の昭和21年1月31日「日本陶磁器工業協議会」結成となって、実を結んだが、法的な根拠のない申合せ機関であった。そして、統制組合時代の有力業者が理事に選任された。この組織が昭和23年に改組した現在の日本陶業連盟で、生産者側の団体であり、輸出側では、昭和21年、日本陶磁器交易株式会社設立だったが、昭和22年5月に入り、総司令部の命令によって、政府貿易代行指定機関として、「鉱工品貿易公団」が設立され、同時に日本陶磁器交易株式会社は閉鎖、これからいわゆる公団貿易が開始された。以後陶磁器貿易が正常な民間貿易に移るまでの輸出は、この講談が行っていたが、この公団が全滅の状態にあった陶磁器産業の復興に寄与したところは、計り知れないものがあろう。

 昭和22年8月15日になって、制限付きで民間貿易が許可され、現在の自由貿易への第一歩を踏み出した。そして貿易が許可され、現在の自由貿易が許可され、現在の自由貿易への第一歩を踏み出した。そして貿易公団の使命は、ここの一応終わりを告げた。

  そこで当時の円と米ドルとの交換比率は、しばしば改訂され、最高1ドル550円から、係員の査定で戦前の在庫品の如きは、最低70円であった。この事態は、我国の輸出貿易を、非常に複雑かつ不便なものにしていたが、昭和24年4月25日マッカーサーより、米一ドル360円の公定外国為替レートを採用するよう指令が出た。

 

  (ロ) 朝鮮動乱とその後

  昭和25年6月25日、朝鮮動乱が勃発、米軍の軍需品調達は、特需の名によって呼ばれ、前年来の不況に沈淪した、我国経済界に、起死回生をもたらし神武以来の好況隣、神武景気と呼ばれた。輸出もインドネシア、ポンド地域が活発となり、4億6千万円の輸出をみるに至った。昭和26年に入ると世界各国戦時中の物資欠乏の補充買旺盛なる折柄、当地萬古焼も商談活発にして、価格面で15%の上昇を来たし、米国を初め、東南アジアなど各国への輸出総額一千万円に達した。

  萬古業界では、かねてから大量受注の態勢を整えるため、各社共努力研究中であったが、昭和26年3月15日、萬古窯業に引続き、3月20日、山庄、笹井両社トンネル窯の火入れを行い、いよいよ石炭から石油時代へと変わってゆきまた大量生産時代へと入っていった。翌昭和27年10月3日、日本陶磁器輸出組合設立、昭和29年3月30日、四日市萬古陶磁器工業協同組合会館落成に伴い、萬古業界の団結、発展へと進んでいった。昭和31年8月、日本陶磁器意匠センター設立、この意匠センター発足に伴い、日本陶磁器ノベリティーセンター設立、この意匠センター発足にともない、日本陶磁器ノベリティー協会が、同年12月4日、ポッタリークラブに於いて、創立総会が開催され、又昭和25年、日本陶磁器検査株式会社が、財団法人制に統一され、昭和32年4月24日に設立され日本陶磁器輸出の組織が立派に出来あがった。

 

  (ハ)伊勢湾台風と高度成長

 昭和34年9月26日、当地を襲った伊勢湾台風は、我国史上第3位の大型台風、時あたかも高潮、満潮時と際会して、萬古業界の被害は未曾有大隣当日は月末、しかもクリスマス用積出の最盛期に際会した。損害は届出のあった工場は118社、建物設備被害、4990万円、製品原材料の被害、1億5944万円にのぼった。四日市、名古屋両港は、荷役能力は、労務者艀舟不足のため、入港船毎日一隻という状態であったため、業者の中には清水港、及び神戸港の出貨もあったが、業界全体の一致協力と、好況により立ち直った。

  昭和36年、日本輸出陶磁器完成工業組合においては、中小企業団体法によって、出荷調整を半磁器ディナーウエア、西独向ノベリティーと、一般食器を加えて、10月1日より実施された。これに伴い調整事業を目的とした、四日市陶磁器工業組合理事長・故森忠明氏の設立を見、輸出業界の指導にあたった。

  昭和38年、米国市場は引続き好況を持続し、わが国もまた池田内閣の高度成長、所得倍増の施策に生産設備の増強、生産額の増大と、陶磁器輸出額も、目標をはるか超過した。この時代は輸出所得控除制度があり、内需向より利点が大きく、輸出に転業増大の一途を辿ったが、この制度も廃止になり、それに代わるべき輸出戻税制度を、昭和40年12月15日より実施された。

  

 

  (二) ドルショックとオイルショック

  以上述べてきた通り、陶磁器輸出は、順調に伸暢してきたが、昭和42年、ケネディーラウンド調印、昭和45年、F・D・A鉛毒問題、昭和48年後半、オイルショックと輸出をめぐる国際環境の上にのしかかる発展途上国のはげしい追い上げは、陶業史上にも困難な状況となっていったが、昭和50年は前年来の輸出不振の後を受けて、前半は、依然停滞をしたが、後半より漸く上昇の兆しがみられ昭和51年に入って、かなりの復調をみせ、33%増を示した。昭和52年9月以降は、突如としてドル安、円高という不測のショックにみまわれて、昭和53年1月には、240円対米ドルまでに上がり、後半は、180円台と、我が陶業界は輸出陶磁器が、極端に競争力が低下し、成約不振で危急の段階を迎えたことは、何と言っても業界全体にとって大きな打撃であったが、萬古業界持ち前の粘りと、品質向上、新製品開発等などの高級化に、日夜励み、昭和54年8月では円も多少戻り、220円〜225円と明るい見通しとなったが、前節に述べたように、輸出陶磁器産業は、順調に発展しそのせいさんは著しく増加し、むしろ過剰生産の域に達し、過当競争を起こし、再度のオイルショックに、大多数の業者(中小の)は収益減少を来たし、再度の生産、出荷、販売調整、品質向上チェックプライスを実施し、最も恐るべき開発途上にある、後進諸国及び中国の陶磁器産業の勃興は、我国輸出陶磁器産業に、最も恐るべき大敵であるから、目先の糊塗策でなく、根本的、長期的収益増大策に、この際一大勇猛心を奮い起こして邁進する必要がある。

 

 

 

 

 

 

  この項になって、私が、50年前に四日市に移り住んでからの時間になってきました。

私は、50年前は冨田という地にて暮らしていましたので、萬古業界の中心地域にさほど遠くなかったのです。親戚縁者のいない私でしたので、新しく家族になった家人から色々、様々教えてもらうことになったわけです。萬古焼のことは、おそらく「ばんこ祭り」に連れて行ってもらって初めて知ったのだと思います。製造する工房や工場、大量の陶器を扱っている商社(問屋さん)に出向いたことはありませんでした。

 この項を読み、当時のことを思い起こしました。私も業界は違いますが、繊維業界の製造会社にて働いていましたので、ドルショック、オイルショックは人ごとではなく覚えております。

  当時のことを、数字ではなく、感覚、感想、そして のちの対策に向けてどのように動かれたのか、みなさんにお尋ねしたいな、と思っております。